「土台は大丈夫ですか」 ルカ福音書6章46-49節 |
42年という時の重さをまったく軽んじるつもりはないが、しかしまた敢えて言うならば詩編に「千年といえども御目には昨日が今日へ移る夜の一時に過ぎません」とあるように、42年という月日もまた神の前では一時に過ぎないのである。だから私たちはただ単に42年という月日が自動的に教会を作り上げ、教会の価値や質を増し加えるわけではない。もちろん教会が成熟されていくことに時間は必要だ。しかし、歴史の長さを誇ってはならない。大切なことは年数ではなく、私たちがこの42年間何を土台として教会を立ててきたのか、そしてこれから何を土台にして教会を立て上げるのかということだ。それがこの日、一人一人に問われていることだ。
今日の箇所で建てられた家の土台がどうすえられていたかによって、洪水という予期せぬ困難な出来事に直面した時に、違いがはっきりと現れたという主イエスの教えが記されている。深く掘り下げ、岩の上に土台をしっかりすえて立てた家は「揺り動かすことが出来なかった」。それに対して、土台なしに地面に直接立てた家は「たちまち倒れ、その壊れ方がひどかった」と壊滅的なダメージを受けたと語られている。
主イエスは、このたとえを「私の言葉を聞いて、行う人と」ということ「私の話は聞くが、行わない人」のこととして語れている。「主よ、主よ」と一見熱心に、敬虔な信仰者のように装っても、実に、行いが伴っていないというのだ。「薄荷や芸香やあらゆる野菜の十分の一は献げるが、正義の実行と神への愛はおろそかにしているからだ。これこそ行うべきことである」(ルカ11:42)。
「主よ、主よ」と一見信仰熱心にあることは出来るでしょう。しかし、主イエスはその内実をごらんになるのだ。主イエスは、「主よ、主よ」ということを問題にされているのではない。「主よ、主よ」という者たちにどんな実りがあるのかを問題にされるのだ。主にお仕えするという内実を問われているのだ。教会はまさにイエス・キリストのみに服従する時に教会として立つことができる。それなくして、教会は教会ではなくなってしまう。いやわたしたち一人一人がイエス・キリストに従っていくという決断なしに教会は教会にはならないということを私たちは肝に銘じなくてはならないのです。
献堂42周年を祝うこの日、私たちは「わたしとわたしの家は主に仕えます」(ヨシュア24:15)という告白を改めてしていきたいと願う。その決断と、そこから始まる新しい一歩が、また私たちが土を深く掘っていく作業になると思う。私たちは42年を経て、今なお神の教会を建て上げる途上にあるのだ。ひたすら岩盤=イエス・キリストを目指して、そこに家を建てることを目指して歩む者たちであろう。