「苦難の中から」 使徒言行録7章9-16節 |
ステファノの説教の中に登場するヨセフという男。この人の人生はそれこそ計画通りに進まないものであった。詳しくは創世記37章からを読む必要があるが、ヨセフは兄弟に売り飛ばされたり、濡れ衣を着せられ牢屋に入れられたりと「あらゆる苦難」(10節)を経験した。自分は何もしていないのに、次から次へと不幸と思われることが身に降りかかってきたのだ。しかし、彼は最終的にはファラオの夢を説き明かし、エジプトNo.2の座に着くことになった。
ヨセフ物語は読みようによっては、エジプトに売り飛ばされた不幸な男が、それに屈せずにNo.2に登りつめた「サクセス・ストーリ」のように読める。しかし、ヨセフ物語はそうではない。この物語を読み解く鍵は、「神はヨセフを離れず」(9節)という言葉である。それは創世記においては「主が共におられたので」と繰り返し語られる言葉なのである。
ヨセフに次から次へと襲ってくる出来事の度に、創世記は「主がヨセフと共におられたので」と語るのだ。そのクライマックスの出来事が創世記45章に記されている。ここでヨセフは自分を売り飛ばした兄弟たちに身を打ち明けるが、その時に彼は恨みつらみを言うのではなく「わたしをここに遣わしたのは、あなたたちではなく、神です」と語ったのだ。「神が、わたしを!」。自らの人生に起こったことを、ヨセフは神の大きな視点で捉えなおしているのだ。これまで兄弟に恨まれたり、無実の罪で捕らえられたり、「あらゆる苦難」があったけども、「神はヨセフを離れず、恵みと知恵をお授けになった」と、ヨセフはエジプトに置かれた出来事を神の視点から捉え直したのだ。
ヨセフ物語がから教えられることは、ヨセフの成功ということではなく、私たちのそれぞれの人生の物語は、神の大きな物語の中で捉えなおすことができるということである。私たちの人生の主人公はあくまでも「私」である。しかし、そこにもう一つの視点、もう一つの大きな物語から「私の物語」を捉え直すことができる。それが信仰者の見方でもあるのだ。
ヨセフは兄弟たちに身を明かした時に、それまでの人生の断片が一つにつながるような経験をしたのだ。その経験は私たちの人生においても起こることである。時に試練があり、絶望があり、理不尽としか思えないような状況に私たちも直面する。何の意味も見出せない時がある。しかし、なお「この時のためだったのか」と新しく受け止めなおす時があり得るのだ。「神が」という視点から、新しく受け止めなおすことが可能になる時があるのだ。
新しい年はどんな年になるだろうか。すべてが思い通りに、ばら色で! とはなかなかいかないだろう。しかし、「いかなる苦難の中にあっても」神が私たちを離れることはない! そのことを受け止めつつ、新しい年の歩みを始めたい。