「主の御名はほめたたえられよ」 ヨブ1章1-22節 鈴木淳牧師 |
人の人生は順序良く納得出来る事であれば、仮に悲しい人の死でも受け入れられます。しかし納得の出来ない不条理の狭間に生きる私たちは、何を持って自分自身を律して行けばよいのでしょうか。
新年に与えられた聖書の箇所は、ヨブ記です。ここのテーマは、無垢な正しい人が大きな苦しみを受ける、そしてその理由についての論争が延々と綴られているのです。
次々と襲う災難の中でのヨブ答えは、1章21節「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と何とか神の側に留まろうとします。しかしそのヨブを世間は許さない。よりにもよって彼の友人が、彼を執拗に攻め上げるのです。その論争の結果、38章においてついに神が登場します。そして、「これは何者か。知識もないのに、言葉を重ねて神の経綸を暗くするとは。」「わたしが大地を据えたとき、お前はどこにいたのか。知っていたというなら理解していることを言ってみよ。」と問われヨブはひれ伏していくのです。そして「あなたは全能であり、御旨の成就を妨げることはできないと悟りました。」と答えます。この言葉をもって、ヨブは1章21節で自らが言った「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」という言葉に本当の意味で戻って行ったと言えるのではないでしょうか。
このヨブ記は神と人への解釈の様々な論争があります。しかしその論争による何らかの解釈を試みようとする行為は、もしかすると愚かにも、ヨブとその友人達との不毛の論争に私たちも巻き込まれることを意味するのではないでしょうか。それ故に私たちは寧ろ、その災いなるかな人生の苦境を解釈なしに受け止め、そのまま受け入れ、神にお返しして行く事が真の信心のように思わされるのです。
昨年末の紅白歌合戦で、作詞家の阿久悠さんの言葉が紹介されていました。「何もしなければ 道に迷わないけれど、 何もしなければ 石になってしまう」という言葉です。私はなるほど本当にそうだなと思わされました。神は私達を、石としてじっとしているように造られたのではない。神は、考え、悩み、動き回る力を私達に与え、何かを成せと語っている。何かをする時、つまり生きる時、様々な苦悩と迷いが発生します。しかし、そのようなものとして神は私達に期待をして造られたのです。その事実をそのまま感謝して受け止めて行きたいのです。それは、ある種の諦めのようなものではなく、また体の良い悟りなどではありません。それは、今年一年の見えないものを伺い見て、更に希望していくための信仰の歩みそのものだと思わされるからです。
今年一年神のご加護を祈ります。 アーメン