「インマヌエルの神」 マタイ福音書1章18-25節 |
ヨセフはその葛藤の中で「ひそかに縁を切ろうと決心した」。当時の男性としては出来る限りマリアを思いやった決断でもある。だが、それでもヨセフの心は晴れることなく、なお考え続けていた。20節を岩波訳は「これらのことを悶々と思い巡らしていると」と訳す。なお「悶々と思い巡らしている」ヨセフに主の天使が夢の中に現れ、そしてマリアの胎の子が聖霊によって宿ったことなどが告げられ、「インマヌエル(神は我々と共におられる)」を告げられるのである。
このインマヌエルの約束がヨセフの人生の危機において、どん底において与えられたことは決して偶然ではない。むしろ神との出会いがどこで与えられるのかということを指し示していると言ってよい。先日、重い病を得ている方と話す機会があった。その方は「この病を通して神を求めるようになった。病がなければそんなことは思いもしなかった」と言われた。病という不条理に思えることを、神から与えられたものとして受け止めることができることは何と幸いなことだろうかと思わされた。かつて森有正は「(だれにも言えず)自分だけで悩んでいる。恥じている、そこでしか人間は神さまに会うことができない」と語ったが、ここにインマヌエルの出来事の意味があるのだ。
ヨセフはまさに「自分だけ悩んでいる」時に、この神に出会った。そして、不条理に思えるマリアの身ごもりを「聖霊によって」と信じていったのだ。
インマヌエル! それはマタイ福音書を貫く使信だ。マタイ福音書はインマヌエルの約束で始まり、インマヌエルの約束で終わる!(マタイ28章を見よ)。そしてそのインマヌエルはイエスの生涯と十字架と復活を通して明らかにされるのだ。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と絶望の叫びを上げ、不条理な十字架刑を引き受けられた主イエス。まさにそのお方を通して、インマヌエルの神は「どこで」共におられるのかが私たちに明らかにされたのである。
共におられる神は、人間の絶望のどん底にこそ共におられる。それは私たちの信・不信を超えて、神がイエスを通して私たちにお示しになった事実なのだ。最後の最後にこのインマヌエルの約束がある。ヨセフは、人生のどん底においてこの約束を聞き取った。そして信じ従ったのである。クリスマスの物語は、私たちにこの信仰を求めてくるのだ。
ヨセフは目覚めると直ちにマリアを迎え入れた。驚くべきことだ。しかし、インマヌエルを聞き取るところにこのような信じがたいことが起こるということだ。そしてヨセフがマリアを受け入れたように、「神、我らと共に」という恵みは、「我ら神と共に」という課題につながるのだ。ヨセフとマリアが共に生きることを引き受けたことによって御子は私たちの間に生まれたのだ。ここにクリスマスの大きな使信がある。