「欺き、ごまかして」 使徒言行録4章32節-5章11節 |
会社員時代に研修として「自己啓発セミナー」にしばらく出席させられた。その研修でやったことは、如何に自分の目標、願望を達成できるかに限られていた。「啓発」とは辞書で調べると「専門的見地から人の気付かない点を教え、より高い知性に導くこと」とある。「より高い知性」へ自己を導く研修の中味は、自分の欲望をどう達成するか。それが達成できれば、個人も、家庭も、会社も幸せになる! というのがセミナーの結論であった。
主イエスのもとにやって来た金持ちの青年の話しを思い出す。金持ちの青年は「何をすればよいか」と主イエスに「より高い知性」を求めたのだ。それに対して主イエスは「持ち物を売り払い、貧しい人に施せ」と言われた。それこそが「高い知性」ではないか。少なくとも私の受けたセミナーには、「他者」という発想はなかった。何かを「分かち合う」という視点は皆無であった。自分で働き得たものはすべて自分のもの。それをどう占有しようとも!
しかし、32節には「一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく」とあり、全く違う価値観が記されている。そして必要に応じて分かち合われた結果、「一人も貧しい人がいなかった」という神の御心の実現がここあったというのだ。その代表の物語としてバルナバが描かれている。それに対して5章からはアナニアとサフィラの物語が続けられる。この夫婦の物語は、32節以下の内容と対照的に描かれているのだ。
アナニアとサフィラの夫婦は、持っていた土地を売り、その代金を夫婦でごまかし、使徒の足元においた。そのことが「神を欺いた」ということで、命を失うということが記されていた。このアナニアとサフィラの物語から私たちが受け止めるべきことは、あの豊かな豊作を得た金持ちが、イエス様に「愚か者よ」言われたように、物質によって自らの生活を保証しようとする人々は命ではなく、死を受け取るということだ。私たちは何だかんだと言って神以外のものを頼りにしているのではないか。神より私たちの最後を保証するものは、お金であり、能力であるように思い込んでいないだろうか。私たちの能力やお金は時として、私たちが神に近づくのを妨げる。それこそが私たちにとっての偶像なのである。
「神のものを自分のものにすることが罪である」と言った神学者がいるが大切な指摘である。この世界、土地、自然、命、与えられた宝。それらを私有化するところに罪があるということだ。私たちが今手にしているものは、神から管理するようにと委託されたものである。神が必要とされるときに、私たちが手にしているものを豊かに献げることができるか否か。献げることには不安がつきまとう。「もったない」という思いさえある。しかし、物質にとらわれている時ほど、私たちが平安から遠のくのもまた事実である。アナニアとサフィラが命を失ったのは、そのことを象徴的に表しているのだ。
バザーを通して、私たちは、神が私たちの真摯な献げ物を喜んで祝福してくださることを体験した。そして、アナニアとサフィラの物語から、献げ物に対する態度が問われることを学んだ。今一度「献げる」ということを自らの課題として受け止め直す時としよう。