「どうすればよいのですか」 ルカ福音書3章7-18節 |
ヨハネのメッセージを受け取った者たちは次々と「わたしたちはどうすればよいのですか」と尋ねたと記されている。神の言葉を託された預言者の言葉を聞いたとき、それぞれ違う立場にいる者たちが、それぞれの場において「わたしたちはどうすればよいのですか」という応答があったということだろう。今日の箇所で3回繰り返されるこの言葉を2週間ほど前に説教題にしたわけだが、荒野のヨハネに神の言葉が降ったように、まさに「今」のわたしたちに問いかける言葉のように思うのだ。
私たちの「今」はそれこそ歴史の一大転換期である。今や戦後が終わり、後に振り返れば2006年12月15日(教育基本法が「改悪」された日)が「戦前」であったと言われかねない時である。そのような「今」において、神の言葉を聴こうとするわたしたちキリスト者が「わたしたちはどうしたらよいのでしょうか」と切実に問うことが求められているのではないだろうか。
新聞を読んでいたら、現代文明の「アポリア=袋小路、困難(ルカでは不安と訳される)」において、思想や哲学(わたしたちで言えば神学)において思考の放棄が世界的に拡がっていることが指摘されていた。これまで人類は歴史の中で直面してきたそれぞれの時代の「アポリア」から抜け出そうとする努力の中から「新しい知」を生み出してきた。「重要なのはアポリアを自覚すること。情報や知識があふれる中で、何が必要なのかを見極めることが必要」なのである。
この国において戦後、平和憲法や教育基本法を制定したことはまさに、「新しい知」であった。しかし、今や、その片輪がはずされ、新たなアポリアに突入してしまった。私たちがそのことを自覚すること。アドベントに与えられている御言葉に言い換えれば「目を覚まし」、「頭を上げ」ることであろう(ルカ21:25-36)。そして、「どうしたらよいのか」と一人一人が問われることこそが、思考を放棄しないことであるし、またここから「新しい知」が生み出されるのだと信じる。
終末の裁きからヨハネは厳しく問いかけた。しかし、主イエスはヨハネの予想とは違う形で来られた。燃えつくす裁きの火としてではなく、「愛によってお前を新たに」(ゼファニア3:17)される方として来られた。実のならないいちぢくの木を前にして「今年もこのままに」と主人に嘆願してくださるのが主イエスだ(ルカ13:6以下)。
アドベントは、私たちが主イエスを待つ時である。しかし、また同時に主が、私たちが立ち返るのを今かと待っておられる時でもあるのだ。私たちは、裁きの恐れからではなく、主イエスの愛の恵みからそれぞれに「どうしたらよいのか」と自らの生活を省み、向きを変える者たちでありたい。