「迷子」 ルカ福音書2章41-52節 |
エマオの途上の弟子たちを思い出す。失意の中を歩む二人の弟子はイエスと一緒に歩きながら、しかし、彼らは一緒に歩いておられる方がイエスだとは分からなかった。だけど、イエスはその弟子たちとずっと一緒に歩いてくださった。二人はなお、それがイエスだとは気づかないけども、主は「同伴者」として共に歩き、聖書を説き明かしてくださった。そして、「分かった」という瞬間があった!しかし、その時イエスの姿は見えなくなったのだ。「父の家におられる」方は今も目には見えないが、私たちと共にいて一緒に歩いてくださる。それがアドベントから降誕節にかけて繰り返し、私たちに語りかけられているメッセージである。
私たちが、悩み苦しみ、失意の中にいる時に、そのことを受け止めることは決して容易なことではない。信仰を与えられていてもそれが何の意味を持たないように感じるときもある。どんな慰めの言葉も心に響かない。聖書を読んでも、祈っても、心には平安がない。そんな苦しみを味わうことだって私たちは経験する。この闇はもう終わらない・・・。出口はない。そんな恐れに心のすべてが支配されてしまう。「インマヌエルっていうけども分からないよ」ともだえ苦しむときがある。しかし、それでもなおイエスという方は、私たちが理解できない時にも関わらず、いや、まさにそのような時にこそ共に歩いていてくださる、と神様は聖書を通して私たちに教えてくださっていると私は信じる。
昨日の晩、アメリカから筋ジストロフィーを患うチェルシーの近況を知らせるメールが届いた。私は彼女のことを思い出すといつも彼女が日本に来たときに証してくれた「Footprints~足跡」という一つの詩を思い出す。
一緒に歩いていたはずの足跡が自分の人生のもっとも苦しい時に一つになっていた。彼はそのことで酷く悩み、「なぜ一番つらい時にあなたは私を置き去りにしたのか」主にたずねた。すると主は「一組の足跡しかないのは、わたしがあなたを背負って歩いたからだ」と答えられた、という内容の詩だ。彼女は病いを得た中からこのことを証ししてくれた。
私たちには疑い、悩み、イエス様を見失い迷子になっているように思える時がある。しかし、主は、生きて共にいて一緒に歩いていて下さる。そのことを知らないのかと今も語りかけてくださっているのだ。このことを今年最後の時、受け止め直したい!