「しなやかな岩」 マタイ福音書16章13-20節 荒瀬牧彦牧師 |
ペトロは「あなたこそメシア」という究極の告白をしたけれど、それで主イエスがすべてわかったわけではありませんでした。すぐ次の場面では、十字架に向かうと予告をした主イエスに向かって、「そんなことがあってはなりません」と意見し、「サタンよ引き下がれ」と叱られました。まだ告白の意味がわかっていなかったのです。
私たちの信仰告白はどれも途上にあるものです。カンバーランド長老教会は特にその点を強調して、今の時代、今の言葉、今の状況の中で福音を告白しなおす、ということをしてきました。ペトロのメシア告白や使徒信条、ニケア信条といった基本信条は、言葉としてはもう変わることがありません。凝縮された普遍的告白です。でも、それをどう理解するか、どう自分たちのものとするか、どう生きていくかという意味では、同じく途上にあるものであって、暫定的な性格を持つものです。中味に何をつめていくかという意味において、まだ開かれているのです。完結していません。「イエスは主である」という告白は、最後の答えではなく、そこから本当にイエス様が御主人であり、イエス様の心にかなう自分を作り、世界を作っていくという起点なのです。
ナチス・ドイツが支配するドイツで、ドイツ福音主義教会のある人々はバルメンという所に集まり、ドイツ福音主義教会の今日の状況に対する神学的宣言という短い文書を発表しました(バルメン宣言)。その第一のテーゼはこうです。「聖書においてわれわれに証しせられているイエス・キリストは、われわれが聞くべき、またわれわれが生と死において信頼し服従すべき神の唯一の御言葉である」。
難しい政治的声明を出したのではなく、とてもシンプルなことが述べられています。キリストこそ神の唯一の御言葉であり、我々はそれに聞く。しかし、あの状況の中でそう告白するのは、教会はヒットラーに服従しないということでした。
「あなたこそキリストです」という神に与えられた信仰告白を言い表すのは、それぞれの状況の中で何かを意味し、何らかの言葉や行いとなっていくです。この世界の主がキリストであるのならば、私たちはどう生き、何を求めるべきでしょうか。それを問いながら、主にしたがっていきましょう。