「キリストがわたしの内に」 ガラテヤ2章15-21節 |
一つは、「人は、律法の実行ではなく、ただ、イエス・キリストへの信仰によって義とされる」ということ。「義とされる」とは元々は法廷用語で、「無罪とされる」という意味を持つ。人々は律法を実行することによって、神から無罪宣告を得られると考えていた。テストを受けて、合格するか否かのようなものだ。しかし、パウロは「ただ、イエス・キリストへの信仰によって義とされる」と、再び律法主義への戻ろうとするガラテヤの人々に強く訴えたのだ。
ここで注意したいことがある。ともすると私たちの中で「信仰」が新しい律法になりがちだからだ。教会の中で、「私のような信仰では、神様は私のことを見捨てておかれるのではないかと不安になる」ということを耳にすることがある。「信仰とはこうあるもの」というイメージがその人たちにはあるのだろう。しかし、それとかけ離れている信仰者としての自分の姿。ふとよぎる不安や恐怖。私も牧師として同じようなことを覚える時がある。しかし、このような時、私たちは立ち止まらなければならない。なぜなら、そこでは「信仰」が何か一つの功績のように考えられているからだ。「信仰」も、一つの資格や、新たな律法と変わらなくなってしまう。
今回の説教の準備をしていて、教えられ、私自身励まされたことは、「キリストへの信仰」というギリシア語は「キリストの信仰」とも訳せる言葉であるということだ。英訳聖書のKJVは「キリストの信仰」と訳している。つまり、「わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子」(20節)が、神の御心にどこまでも従順であった、その信仰によって「私たちは義とされる」ということだ。
とするならば、私たちの側の信仰が何かの手柄になるではない。「ただ、イエス・キリストの信仰によって義とされる」という恵みを受け取るか否かだ。それこそ、それにも関わらず律法によって、すなわち自分の功績を誇ろうとするものは、イエス・キリストの恵みを無にすることだとパウロは言うのである。
もう一点、覚えておきたいこと。プロテスタント教会は、信仰義認を「信仰義認=行為不要」という図式で受け取っている傾向がある。しかし、これもまた大きな間違いだ。今日の後半を読むと、パウロが「生きる」という言葉を繰り返し4回使っていることに注意したい。パウロは、義とされて生きることはどういうことかをここで語るのである。それをパウロは「キリストと共に十字架につけられている(今もつけ続けられている)」と表現した。私たちはキリスト者は「肉において生きている」(20節)。その中で、わたしのために身を献げられた方のゆえに、この世における様々な痛みや苦悩や不正や抑圧を耐え忍び、それらに対して激しく闘わなければならない。そして、そのような歩みの中でなお「わたしを愛し、わたしのために御自身を献げられた方」を信頼しつつ生きる存在がパウロのいうキリスト者なのである。その時、「わたしの内にキリストが生きておられる」という信仰の告白が私たちにも生まれるであろう。