「キリストを着る」 ガラテヤ3章23-29節 |
ガラテヤの教会には色々な人がいた。ユダヤ人もいればギリシア人もいた。奴隷も自由な身分な者、男と女がいた。そしてこの世の属性が教会の中でもそのまま機能し、入り込んでいた。同じ教会にいるけども、私たちはユダヤ人、あなたたちは異邦人といったような具合だ。だからこの手紙を書いたパウロは「あなたがたは皆、信仰により、キリスト・イエスに結ばれて神の子なのです」と記す。これこそ教会の中での最も根本的な人間関係だ。洗礼を受けて、キリストに結ばれている者はみな「キリストを着ている」と言うのだ。キリストを着ているところでは、「ユダヤ人もギリシア人もなく、奴隷も自由な身分の者もなく、男も女もありません。あなたがたは皆、キリス・イエスにおいて一つだからです」。
私たちも私たちを規定する様々なカテゴリーに分類され、その中にある価値観に翻弄されている。ナショナリズムの台頭する今日において「国」、「日本国民」というものへの帰属性を強くしようと政治の世界は躍起になっている。最近の教育改革関連3法案が可決されたこともその流れの中にある。格差の問題。性の問題もしかりだ。「こうあるあるべき」と決められた事柄を守るうちは認められるが、それをはみ出した者は排除されていく。
福音書でゲラサの男の記事が読まれた。墓場に住む人の姿はまさに律法社会が作りだした世界を象徴する。そこにイエスは行かれ、そして一人の人と出会い、癒された。それが主イエスの宣教だった。パウロはまさにこのイエスに出会い、熱心な律法主義から解き放たれ、「キリストを着る者」となったのだ。キリストを着るということは、今までのことがら一切新しくとらえ直すことだ。洗礼を受けるということは、今まで着ていた着物(律法)を脱ぎ捨てて、新しく復活のイエスを着込むことだ。イエスを着ることによって、あのイエスが見、聞き、交わり、行動した世界が見えてくる。その道をパウロは歩んで行こうとしたのだ。着たままで飾りのようにじっとしているのではなく、イエスと共に歩む。
私たちは外見で人を判断したり、差別をしたりするぬぐいがたい罪を抱えている。だからこそ私たちはキリストを、私たちの都合で羽織ったり、脱いだりする単なる上着としてではなく、常に身につける肌着として着込みたい。具体的な生活の中でキリストを着込みたいものだ。そして私たちの教会の共同体を、律法ではなく、キリストの恵みの上に立て上げていきたい。