「どうしても譲れないこと」 ガラテヤ6章7-16節 荒瀬牧彦牧師 |
パウロが批判している「無理やり割礼を受けさせようとしてい」る人たちとは、ユダヤ教徒からの攻撃を懸念しているユダヤ人キリスト者であったようです。キリスト教への風あたりが強くなる中、異邦人キリスト者は割礼を受ける(ユダヤ人になる)のだとアピールしてユダヤ教との軋轢をかわし、教会の安全や社会的地位を確保しようと考えたようです。そんな彼らはパウロの非難をどう思ったでしょう。このような反論があったのではないでしょうか。
「私たちだってキリスト者として教会を守ろうとしているのだ。私たちは少数派だからユダヤ教の公認なくしては存立できないし、ユダヤ教に認められることが即キリストに反することではないだろう。だいたい割礼は聖書に定められているアブラハム以来の契約のしるしではないか。割礼を受けてこそキリスト信仰の正当性を証明できるし、憚ることなく福音の宣教を続けることができるようになる。その結果、福音を広められるのだ。それでこそキリストの良き弟子ではないか。」
きびしい状況の中では、こういう論理は説得力を持つものです。キリスト教の歴史にもこの主の議論は度々出てきましたし、これからも出てくるでしょう。日本の教会でも、西洋の宗教だ、敵国の宗教だとキリスト教が白眼視された戦争中に、「教会を守るため」、「信徒を守るため」、福音の筋道の通らない判断をしてしまった歴史があります。単に国家権力の圧力に屈したというだけでなく、我らも帝国の良き臣民であることを証明せんと、自ら進んで戦争に協力もしたのです。
信仰の変質は、サタンの顔をもってではなく、人々が受け入れやすいもっともらしい言い分をもってやってくるのです。しかしパウロは、そこに潜んでいる福音を福音でなくしてしまう程の根本的誤りを見抜いたのです。そして、ここは絶対に譲れないと踏ん張りました。適当な落とし所をみつけて折り合いましょう、という類の事柄ではない。「もし割礼を受けるなら、あなたがたにとってキリストは何の役にも立たない方になります」とまで問題をつきつめ、一歩も妥協しませんでした。
なぜパウロはキリスト教からキリストを抜きにするような危機を見抜けたのか?「何を誇りとするか」ということと、「迫害を受けて苦しむことをどうとらえるか」という二つの点を指摘しておきたいと思います。割礼推進派は人によく思われ、世間に評価されることを求めた(=肉を誇ろうとした)のに対し、パウロはただキリストの十字架を誇りとした(=自分には誇るものなし)のであり、割礼推進派が迫害されることをマイナスと考えそれを避けようとしたのに対し、パウロは苦しむこと、小さくされることにこそキリストに従う自分たちの使命を見たのです。