「疲れた人は、わたしのもとに来なさい」 マタイ福音書11章28-30節 吉崎恵子姉(日本FEBC代表) |
疲れていない者はいないし、重荷のない人生はありません。「軛」とは荷車や農具を引かせるために、2頭の牛を首のところで横につなぐものです。では主イエスと軛を負うとは、どのようなことでしょう?どうして、イエス様の軛が負い易いか、その重みのほとんどを、主が負ってくださっているからではないか!だからわたしは軽く感じて負いやすいのですね。主の首とわたしの首に離れないように軛がはめられる。その軛のおかげで、主イエスはわたしとぶつかりはしませんが、どんな動きも一緒です。いつも、どんな時もわたしの真横におられ、主のお顔がいつもわたしの顔の横に並んでいらっしゃるのです。わたしがへたばって座り込もうとすると、主も全く同じように座り込んで下さる。重い病気で寝込むとき、実は主イエスもその床に一緒に寝込んでくださっているということです。私が喜ぶ時共に喜び、泣くときに共に泣き、悲しむ時、痛む時、共に悲しみ痛んでくださる。
キリスト者で精神科医の河野友信先生が前葬をされ、おっしゃいました。「狭い棺に閉じこめられた時はっきり分かりました。人間はなんと、どうでも良いことにほとんどの時間を費やし、心を奪われて毎日を生きていることか。本当に大切なことはごくわずかだ」と。
主イエス様がわたしたちをご自分へと招かれる時、その「ほとんど、どうでも良い重荷」は、わたしの足下に下ろしなさい。そして、本当に大切な負うべき荷を私と一緒に負いなさい、と言われているのではないでしょうか。私どもが思い煩いは、決してどうでも良いことではありません。しかし、主の前に出る時、それは小さくなる、それが第一のことではなくなるのです。では、その負うべき大切な重荷とは何でしょう。主イエスは、わたしの荷は軽い、とおっしゃる。では、その軛で負っている主イエスの荷はどんな荷でしょうか?主が担がれた物と言えば、すぐに十字架!と思いますね。十字架が軽いはずはありません。人類の罪を引き受けた、この世で最も重い重荷を主は担がれました。
主イエスは、この軛をやすやすと、元気よく負っておられるのでしょうか?いいえ、主は疲れ果て、腰は曲がり、喘ぎながら負ってくださっている。私の真横で喘ぎながら大きな私の重荷を負ってくださる。それは、私が自分で負いきれないもの。人間の重荷はあれや、これではない、結局、自分自身と自分の罪。交読詩編130編の「深い淵の底」とは神との交わりの絶たれた所。「神を呼べない所から神を呼ぶのだ。信仰は神の恵みに満ちあふれている所からではなく、神から棄てられた所で、なお神を呼ぶことである。その時最も遠い神が最も近い神となるのであり、それが恵みの奇跡なのである」と関根正雄。誰もが、心の一番奥に、深い淵の底を抱えております。そこに立って「罪人のわたしを憐れんでください」と神を呼びましょう。それが、主イエスの元に行くことです。「私の軛を負いなさい。あなたを赦したから、私と並んで歩こう」と招いてくださいます。この主の元に参りましょう。