「覚醒せよ、一個の人間として」 ルカ福音書12章49-56節 信徒奨励 菅原公一兄 |
そして主イエスと同時代を生きた洗礼者ヨハネもまた、それらの預言者の系譜に連なる者であるが、彼の発していたメッセージは裁きの「火」と苦難の「洗礼」を宣告するものであった。
この日本に62年前、裁きと苦難の結果として与えられたものこそが、「戦争放棄、戦力不保持」の第9条を中心とする平和憲法である。苦難を経て焼け跡に残された人々にとって、今後再び「戦争をしない」ための、この憲法9条という、「戦争をできない」原則は、今後自分たちが生きていくためには自明のこととして受け入れられたはずであった。しかし、戦後62年を経て、戦争を体験していない世代が国の指導者層となってきたことに呼応して、この憲法9条は改変の危機を迎えている。この憲法9条を受け入れないという考えの根底にあるのは、「国家にとって軍備は当然に必要なものであり、権利である」という観念であり、それは近代国家観を前提としているのである。
しかし今日の聖書にあるような主イエスの視点とは、国家を前提とするのではない、さらには家族を前提とするのでもない、あくまで一個の人間としての視点である。言うなれば彼は人間として最も低い所に立って、時代に疑問を投げかけているのだといえる。そこに立った所から目指していく「平和」とは、一人ひとりの人間が大切にされる「平和」であり、逆にいえば、一人ひとりの「平和を求める」意志が生かされることによって創り出されていく「平和」である。私たち一人ひとりが互いに、その時代の課題による痛みを負っている者として向き合う生き方の中で、私たちがまた過去に対しても同じように、どのような課題がありどのようにして誤った道へ向かっていったのかというところまで掘り下げて、自らの国の歴史に向き合っていくことを通して、私たちは、私たちがいまどこに向かっているのかを見分ける力を得ていかなければならない。
そのように一人ひとりが平和を創り出していくための力を得ていくことによってこそ、私たちは、私たち人間が歩んできた戦争の歴史、国家による抑圧の歴史を、乗り越えていく可能性へと、希望を見出していくことができるのだ。