「安息日であっても」 ルカ福音書13章10-17節 献堂43周年記念礼拝 |
今日与えられた御言葉には、18年間も腰の曲がったままの女性が登場する。「どうしても伸ばすことができなかった」という言葉に、何とか必死に身体を伸ばそうとする姿を見ることができる。でもどうしようもできない。その上、「病の霊を取りつかれている」、「サタンに縛られている」という周りからの視線も彼女を苦しめたことだろう。彼女は、肉体的、精神的な苦痛を抱える人であった。
イエスは安息日に会堂で教えられていた時、この女性に目を留め、呼び寄せた。イエスの人気は既に高まっていた(12:1参照)。きっと多くの人が会堂に集っていたことだろう。大抵は群集の中で片隅に立つ一人の人の存在など埋もれてしまう。そこにある悩みや痛みも共に・・・。しかし、イエスだけは違うのだ。イエスは近くに女性を呼び寄せ解放の言葉を語る。「婦人よ、あなたはこれであなたの病弱から解き放たれたのです」(佐藤訳)。そしてイエスは女性の上に両手を置かれる。きっと女性を抱くように両手を置かれたのだろうと私は想像する。18年縛り続けられた女性の背中が伸び、社会的にも回復された瞬間である。深い慰めである。
しかし、そこに水を差すような冷ややかな反応が会堂長から起こった。彼はイエスが「安息日に病人をいやされたことに腹を立て」たのだ。「働くべき日は6日ある。その間に来て治してもらうがよい」。理にかなった提案だ。会堂長には「18年苦しんだのだ。後1日待つことができるだろう」という思いがあるのだ。しかし、イエスはそうではない。イエスにとって大切なことは規則や条文ではなく、人間を見ていたということだ。今、この人の苦しみに答えなくてならない!(15節以下)イエスにおいて、何か決まったルールの適応ではなく、愛こそが唯一の律法であったのだ。
献堂記念礼拝にこの御言葉が備えられていることを覚えよう。「主イエスのもたらした福音に生きる」という宣教理念を掲げる私たちに根本を教える箇所のように思う。今、この人の苦しみに答える!それが教会にゆだねられた宣教の大切な事柄である。
私たちの社会には「安息日規定」そのものはないが、様々なルールや規則、法律によって縛られ、がんじがらめにされている。しかし、教会はある意味で、その原理原則を超え出ていなければならない。法律を破ってよいということではなく、主イエスの愛に従っていくことにおいて私たちは自由であることを覚えたいのだ。
のぞみ教会の歴史において小羊館、一粒館で起こった出来事を思い起こそう。コイノニア館で起こった出来事を思い出そう。小さな小さな人との出会いの中に、その小さな業の中に神の国の秘密は隠されているのだ!(18節以下を見よ!)いのちを喜びあう安息日を祝う教会であろう。