「新しい年、新しい歩み」 マタイ福音書2章1-12節 |
偉人の幼少期には様々な伝説が生まれる。預言者エリヤも子どもの時、食事を準備するために火を噴いたと言われる。しかし、マタイは幼子イエスをそのようには記さない。言葉を発することもなければ、まして奇跡など行わない。ヘロデ王の殺意が忍び寄った時、イエスを守ったのはヨセフに示された「夢」であった。そしてその方法はエジプトへ「逃げる」ことだった。何とも小さい、弱い王である。このマタイの語る「ユダヤ人の王」に新年を歩みだす私たちは聞きたい。
マタイ25章40節「はっきり言っておく。わたしのこの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」という主イエスの教えを思い起こさせる『4人目の賢者』という映画を思い出した。アルタバンという男は「3人の博士」の後を追って旅立つが行く先々で皮膚病を患う人や、病気の人、飢える者たちに出会い、行く先々で自分の持っていた食糧や薬をそれらの人々に使わなければならなかった。そして、やっとたどり着いたエルサレムで、「ユダヤ人の王」は十字架の上にいた。彼は、絶望し岩に寄りかかり崩れ落ちる。その時、一人の男がアルタバンの前に現れるのだ。復活の主イエスであった。アルタバンは「私はあなたを訪ねて旅を続けた。あなたに献げる宝を持ってきたのが、もう何も残っていない」と悲しく言う。すると主イエスは言う「アルタバンよ。私はすでにあなたからの宝をもらった。あの皮膚病の人に塗った薬は、私に塗ったのだ」と。
ある神学者は「貧しい人、忘れられた人は言って見ればベツレヘムである。そこで私たちは主と出会うのである」と言う。今の時代の中で私たちは、主イエスのお生まれになったベツレヘムを求めて旅をすることが求められるのではないだろうか。旧約聖書を読んでメシアはベツレヘムに生まれることを言い当てた祭司長・律法学者は旅立つことはしなかった。その彼らには占星術の学者たちに訪れた「喜び」に与ることはなかった。彼らを支配したのは喜びではなく不安だけであった。
ベツレヘムという小さな町で「神の歴史」は人知れず前進していた。そして、そこに立ち会った者たちには「別の道」が用意されたのだ。マタイはヘロデ王を奇跡的に倒すような巨大な力を持ったメシアを書かない。しかし、そのメシアとの出会いは王の命令をものともせずに「別の道を通る」人間を作り出す。新しい出発をさせるのが聖書の神の力である。私たちは、私たちの身近にある「ベツレヘム」を目指し旅立とう。そして礼拝を通して心を高く上げ絶えず新しい出発をしていく者たちでありたい。「新しい年、新たな歩み」を始めよう。