「キリストは神の『然り』」 コリントⅡ1章15-22節 笠原義久牧師(日本聖書神学校校長) |
けれども私たちは日頃の経験から、一つの「然り」を語ることの難しさをよく知っています。「神はキリストにおいて私たちに『然り』を語られた」 ―― だが私たちの周りにはあまりに「否」が多いではないか、と。そして何よりも、自分自身に対して、また現在であろうと過去であろうと自分の人生に対して「然り」を語ることほど難しいことはありません。
精神分析を専門とするある学者が次のようなことを言っています。人間は生まれた時から「自分はOKではないが、あなたはOKだ」という基礎感情を持っており、それは一生持続する、と。つまり、人間とは「自分がOKではない」ことを人生の筋書きとして最初から背負い込んでいる存在なのだ、と。けれども人間は、「自分はOKではないが、あなたはOKだ」という在りようから「私もOKであなたもOKだ」という新しい在りようへと変わりうる ―― 私も「然り」、あなたもそして自分の周囲の者も「然り」であるという事実を受け容れることのできる存在へと変わりうるのだ、と彼は言います。そしてこの新しい立場は、私たちの感情に基づいたり無意識のうちに形成されるものではなく、思想・信念・行動の結果に基づいて形成される、そこにこそ私たちの希望がある、と。私たちの内には、確かに「然り」への憧れにも似た強い欲求があります。自分に対しても自分の周りに対しても、「然り」であって欲しいという切なる願いが私たちの内にはあります。けれども現実は、「否」を語らざるを得ないことの方が圧倒的に多いのが私たちの実情です。
今の時代を深く覆っている、また私たち一人一人を深く覆っている夕暮れにように展望なく、救いがなく、喜びのない情況、「然り」ではなく「否」が充満している私たちの内外の情況にもかかわらず、「敢えて」 ―― この「敢えて」がキリストである ―― キリストゆえに「敢えて」私たちは「然り」を語ることができるのだ。この「敢えて」がなければ、キリストがなければ、「OKではない」私という存在に対して「然り」を語ること、また「否」に充ち満ちている周りの情況に対して「然り」を語ることは、とんでもない誤りだと言えるでしょう。
神は天地創造の時この世界を「よし」とし給うた。私たち人間存在の根底に「よし」を語り給うた。私たちが生きることに「然り」を語り給うた。今朝の聖書は、この神の事実がキリストにおいて実現された、キリストにおいて本当に「然り」となったと語っています。神のよって根底から「然り」とされた存在にふさわしい生き方から、途方もなく遠ざかり、脱落し、喜びを欠き、いのち乏しくある私たち ―― 神をそれを決して黙認することはありません。
この主日から始まる待降の時、「敢えて」であり「にもかかわらず」であるお方として、「OKではない」から「OKである」への転換を可能にする唯一のお方としてのキリストを待ち望むよう促されているのではないでしょうか。