「命をかち取れ」 ルカ福音書21章5-19節 |
まさに今日の状況を言い当てているとしか思えない。恐怖や不安が世を支配している。 ミレニアムを迎えるとき、オウム真理教のように「ハルマゲドン」を説く新興宗教もあった。しかし、今となればそれもかわいいものとさえ思う―決してあの事件の後遺症で苦しまれている方のことを言っているのではない。正義のヒーローを気取り、無差別に爆弾を投下し、罪もない人々を殺し続ける国の大統領に比べればということだ。彼もテロという不安をうまく利用している。
今日の箇所に「こういうことは起こるに決まっている」と書いてある。注解書などをみると「神の計画」「神の摂理」ということが記されている。しかし、引っ掛る。怖い思いがするからだ。
神学生時代に研修していた時に、アフガニスタンへの報復戦争が始まった。研修教会の高校生たちと話をしていた時、一人の信仰熱心な女子高生が「まあ、聖書にそうなるって書いてあるから」と今日の箇所を指してさらっと言った。怖かった。その地で多くの人の命が奪われ、恐怖に怯える人々には全く思いを寄せることなく、「聖書に書いてある」と言えるキリスト教信仰や聖書の読み方とは如何なるものなのかと思わされた。今回のイラク戦争を「ハルマゲドンの予行演習」と歓喜する極右ファンダメンタリストもいると聞く。
確かに聖書に「これらのことが起こるに決まっている」と書いてある。しかし、戦争を引き起こしているものがそれを正当化する言葉ではない。まして神の摂理を持ち出し人の命を奪うことは傲慢以外の何者でもない。
エリ・ヴィーゼルの『夜』の、大人二人と子ども一人が絞首刑にされる場面で、「神は絞首台におられる!」という叫びがある。神の摂理はこの神からのみ見るべきである。十字架につけられたイエス・キリストからである。戦争を神の摂理と見る者が仰ぐカミは、イエス・キリストを十字架へ追いやったカミに他ならない。それは宗教的に祭り上げられたカミであり、血に飢えたカミである。決して主イエスが仰ぎ見た「アッバなる神」ではない。弟子たちが宣べ伝えたのも主イエスの十字架と復活であった(使徒4:10以下)。そこに迫害が起こったのだ。
主イエスは「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない」と言われた。迫害を受けていた初代教会の人々に大いなる希望の言葉として響いたはずだ。迫害される者の多くは髪を捕まれ振り回されるのではないか。それは圧倒的な力の前に屈する人間の姿だ。しかし、イエスの名のためにそのような目に会う者の髪の毛の一本さえも主イエスが覚えていてくださる。これは希望の言葉だ。
今、命が無慈悲に奪われる時代にあって十字架の死へと歩まれた主イエスがもたらした福音に生きることは時として時代に逆らわなければならない。それは忍耐を要求される。私たちは「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救う」(ルカ9:24)という命の逆説を忍耐によってかち取るものでありたい。