「見失った一匹を捜す」 ルカ福音書15章1-10節 |
食事を一緒にするということは、彼らの仲間である、ということを公に言い表すことであった。律法学者たちは、イエスが一方で「神の国」を宣教しながら、同時に律法違反者の仲間として振舞っているのは許しがたい、と考えたのである。
するとイエスは譬えを語り始められた。不平をいうあなたがたが100匹の羊を持っていて、1匹を見失ったら99匹を野原に残してでも捜すはずだ、と。「見失う」という意味は、人間が完全に破壊されてしまった。打ちのめされて死にそうな状態を表している。ルカはこの言葉を嵐の中の船の上で叫ぶ弟子たちの言葉に使っている。「先生、先生、おぼれそうです」。それが見失われている状態である。徴税人や罪人はまさに見失われているのだ、とイエスは言うのである。
「10代しゃべり場」という番組を観た。金髪で服装も派手な女子高生の話だった。彼女は中学生の時に、引越しをした。越した先の学校は登下校時にヘルメットの着用が義務づけられていたのだが、彼女はどうしてもそれを受け入れることができなった。次第に、教師から目をつけられ、同級生からも無視されていった。そのような中で、彼女は担任の先生に相談をもちかけたのだが、校則を破っている彼女の訴えはまともに取り上げてもらえなかったという。彼女の家庭も複雑で、彼女は自分の居場所を家庭の中でも見出すことができない。トレイが唯一の自分の場所だ、と思い知らされた時、言いようのない寂しさと悲しさが彼女を襲ったという。彼女は大人に「おぼれそうです」、「破れそうです」とSOSを発信していたのだ。しかし、だれも彼女のおぼれそうだという叫びを受け取ってくれる大人はいなかった。学校や社会は彼女のような子たちを白い目で見るし、「まともになれ」「ルールを守れ」という。
しかし、イエスは違う。律法学者たちが「罪人」と十把一絡げにレッテルを貼るようにイエスは人間を見ない。あくまでも1人に目を留められるのだ。1人1人さまざまな事情を抱えている。そこにイエスは行き、一緒に座り、一緒に飲み食いする。どんなに非難されようと、その人の仲間になる。99人の正しい人よりも、1人の朽ち果てそうな存在にイエスは優先的に歩み寄るのだ。しかも見つけるまで!
この譬えは、崩れ落ちそうな人間がイエスに見出され、その存在を受け入れられ、喜びに満たされるというものなのだ。福音の訪れである。それが主イエスの用意された食卓であった。そして、その食卓は、今この礼拝において実現しているのだ。主イエスに見出され、大喜びの宴がこの日の礼拝である。友達や近所の人を呼ぶほどの喜びが主の日にはあるのだ。その恵みを私たちは喜びをもって受け取ろうではないか。主イエスが言うのである「一緒に喜んでください」と。