「必要なことはただ一つ」 ルカ福音書10章38-42節 |
しかし、果たしてこの物語は奉仕とみ言葉のどちらが大切だ、ということを教えるものなのだろうか。よく読むとそうではなさそうだ。この物語は、一世紀のパレスチナ状況を考えて読むと、とても非常識なスキャンダル(躓き)に満ちた物語である。
まずマルタが家に招いたということ。女性がラビを家に招くことは、当時の世界では考えにくいことである。それに主イエスの一行には、女性たちも一緒であった(ルカ8:1以下)。これもまた考えられない集団であった。そしてマリアが主イエスの足もとに座ったということ。これは「弟子入り」を表すのだ。女性たちは、会堂でラビの教えを何とか聞くことは出来たらしいが、家に招いたラビの弟子になるということは男性だけに許されていた。ここでマリアがしていることは、私たちがしばしば描く「物静かで、心穏やかにみ言葉を聞く女性」とは大きくかけ離れたものである。マリアの振る舞いは、今でも女性に対する差別と闘う女性たちに浴びせられる「常識はずれ」「女のくせに」「はしたない」「女らしくない」といった類の言葉が集中するようなものなのである。
今でも男女のしがらみは根強く残っている。役所に行けば、男性が働き、女性が扶養されるという価値観に基づいて、書類の書式は出来上がっている。男性が扶養されると言うことを不思議そうな顔で見る(私は経験した)。それが、社会の「常識」。教会の中はどうだろう。のぞみ教会の台所は、女性たちが切り盛りしているのが現実である。しかし、もし私たちが無意識的に、この社会の「常識」として、女性が台所仕事をするのが当然だと思っているならばそれは改めなければならない。男性がお茶を入れ、女性が座ったままでいることに「非常識だ!」と思う男性はいないだろうか。いや、女性から「女性なのに」という声があがらないだろうか。しかし、まさにその思いこそ、マルタが囚われていたことなのである。
主イエスはマルタの訴えに対して「必要なことはただ一つである。マリアは良い方を選んだ」と言われた。マルタとマリアの物語でいう「必要なただ一つのこと」は、「み言葉を聞くことが第一」というよりも、女性もマリアのように「イエスの弟子になる」ということなのである。
カンバーランド日本中会には50数年の歴史で今だに女性牧師が誕生していない。教職委員会からの呼びかけも「日本中会は君を待つ」である。無意識的に「神学生は若い男性」という価値観があるように思う。このようなしがらみから解放するのが主イエスの解放の福音であろう(ガラテヤ3:26以下)。私たちが、民族、階級、性別を超えて、キリストの福音に生きることがイエスの弟子になることであり、「必要なただ一つのこと」なのではないだろうか。