「希望の朝食」 ヨハネ福音書21章1-14節 |
一世紀後半を生きるこのヨハネ21章の著者は、自分たちの宣教の現実とペトロたちの漁での出来事を重ね合わせて記しているのです。つまり、主イエスの派遣に応えて宣教へと遣わされていったが「何も捕れず」「主が分からない」ような時があった。しかし、その中で主の言葉に従ったときに大漁の奇跡に出会ったというのです。
このことは教会の宣教を考える上でとても大切なことでしょう。教会の宣教は、ペトロたちが夜-すなわちそれは漁にもっとも適していると判断した時には「不漁」であり、漁には不向きにも関わらず、主の言葉に従った時に「大漁」の奇跡が起こるということです。私たちが宣教を考える時、自分たちの経験や知恵が主の言葉よりも勝ってはならないのです。
しかし、現代において「主の言葉に従う」ということも簡単には言えないでしょう。米国大統領も「主の言葉に従っている」と自認しているわけです。私たちがどういう主の言葉に従っているのかが問われるということです。そのことを考える時、極めて重要になるのが、陸に上がった後の出来事のように思います。
9節以下に記される光景が、教会の聖餐の雛型になっているのは明らかなことです。聖餐は説教と並んで礼拝の最も大切なものです。聖餐によって聖書と説教において告知された御言葉を確認するのです。その意味で聖餐は「目に見える説教」とも言われるのです。
聖餐について調べていて印象に残った文章があります。「『コンパニオンシップ』(交わり)とはもともと『パンを共に分かつこと/食事を共にすること』を意味するが、これこそが人間に特徴的な行為なのであり、これこそが共同体の本質なのである。選ばれて集められた者たちが食べ物を分かち合うことこそが人間関係を表現するのである」(バークハート『礼拝とは何か』)。
解放の神学者グティエレスは「食事を分かち合うことは、いのちと姉妹兄弟愛の表現である」と言っています。私たちが聖餐に与るということの意味には、ただ個人としてキリストの死と復活に与るという事だけでなく、「いのちを分かち合う」ということが大きな意味としてあるのです。そしてこの食卓へ招いて下さるのは他でもなく復活の主です。自らを十字架でいのちを奉げることによっていのちを分かち合うことを示された復活の主がわたしたちをその食卓へと招いてくださるのです。そして、私たちが聴き従う主の言葉とは、まさにこの分かち合ういのちの言葉であります。人間を人間として解放し、キリストにあっていのちを受ける言葉であります。主の言葉に従っているといいながら、平気でいのちを奪うあり方は、主の言葉を聞いていることにはなりません。私たちはいのちを分かち合う主の言葉に聴き従う時、そこに主が立っておられることに気付き、そしていのちを分かち合うことにおいて主が私たちの間に共にいてくださることを、もはや問うことなしに知ることができるのです。私たちは、奪い合い、殺しあう時代にあって、いのちを分かち合い、互いを認めあい歩む、主イエスの宣教の業に参与するものでありましょう。