「どうすればよいですか」 使徒言行録2章25-42節 |
「心を打つ」というギリシャ語は「抉る」という意味がある。本当に深い後悔を覚えたときに感じる心の痛みを表す言葉だそうだ。私は最近「心を抉られる」経験は、R姉の死を通して感じた。会社の後輩の死もそうだった。本当に心に痛みを感じた。ましてや、ペトロはここで「あなたがたが殺したイエス」と迫ったのだ。「神の子を殺した!」そのことが私たちに本当に迫るならば、私たちの心は抉られ、「どうしたらよいか」としか言うことができない。しかし、実際はこのことに「心を抉られない」私たちがいるのではないか。
それは、私たちが主イエスの十字架を2000年前の出来事として考えているからだ。もちろんイエスの十字架は一回きりのことであり、そこに神が示されたわけだ。だが、イエスの十字架は世界を包み、そして歴史を包んでいる。それは一回きりの出来事であり、同時に「邪悪な時代」の中で繰り返されているのだ。
聖書会で1994年ルワンダで100日間に100万人が殺されるという大虐殺の中で、1200人もの人を救ったポール・ルセサバギナさんを主人公にした映画「ホテル・ルワンダ」を鑑賞した。映画の中で、カメラマンが報道規制を破って街中へ行き、虐殺の現場をスクープする。ポールはその映像にショックを受けるが、それでも「この映像を見れば、世界の人々が私たちを放っておくはずがない」と期待する。だがカメラマンのダグリッシュはポールに向かって、「世界の人々はこの映像を見て、怖いわね、と一言いうだけで、ディナーを続けるよ」と言う。
その言葉はまさに私に向けられた言葉のように思えた。問いかけられたし、心を打たれた。そして最後に流れた”Million Voices”は私の心を抉った。「この叫びが届きましたか?天が叫んでいる!イエスが叫んでいる!子どもたちが叫んでいる。この叫びが届きましたか?」。この歌は、ルワンダの虐殺で犠牲になった人々の叫び声をイエスの叫びとして受け止めているのだ。
このことを問われた時、私たちにも「どうすればよいのですか」という問いが生まれるのではないか。ペトロは、悔い改めと洗礼を語った。ものの見方を変え、キリストに従うことということだ。「どうしたらよいですか」と私たちは絶えず問うような者だ。しかし、道は示されている。主イエスが示された道に、私たちの向きを変えることが求められているのだ。神に招かれた者たちとして。