「伝えよう 洗礼の恵み」_マタイ3:13-17 |
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2017年 07月 23日
富士山の麓にある富士峰山チャペルの草刈りに向かう途中、かつて日本中会の多くの教会が夏のキャンプなどで利用していたFCC(富士ケ嶺クリスチャンセンター)に立ち寄った。私は、中学校の三年生の夏、FCCで洗礼を受けることを決意し、その年のクリスマスに洗礼を受けた。14歳であった。 洗礼を受ける直前の秋に、母親の財布からお金を盗んだことがばれた。洗礼承諾書の判子を親にもらう必要があったが、「お金を盗む者が、何が洗礼だ」と母に言われたこともあり、正直に頼むことは出来なかった。字のきれいな友人に親の名前を書かせ、夜中に起き出して判子を勝手に押して教会に提出した。問題ありの洗礼であった。 しかし、その洗礼が私の人生にとって決定的な出来事なのだ。高校三年生の夏、高校野球を終えた時、「洗礼を受けているのだから教会にいかなければ」と真っ先に思った。あの時に洗礼を受けていなかったら、私の人生は違ったかもしれない。信仰的にも不十分であり、問題のあった洗礼かもしれないが、私の洗礼はただただ神様の恵みによるものだと今は強く思う。 洗礼への導かれ方はそれぞれに違う。一人一人の固有の物語がある。洗礼を受けた教会も、その方法も違いがある。しかし、同じ「洗礼の恵み」に与っているのだ。主イエスが洗礼者ヨハネから受けられた時のことをマタイは「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのをご覧になった。そのとき『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」。(16−17節)。主イエスが洗礼を受けられたことによって神と一つされたように、私たちも洗礼によってキリストとつなげられることで、洗礼を受ける時に主イエスが経験されたできごとを同じように経験するのだ。私たち一人一人は洗礼を受ける時に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神から宣言される。「わたしの心に適う者」とは直訳すると「わたしは彼を喜ぶ」。神がわたしを喜びとしてくださる! 私たちが洗礼を受けた時、その宣言が天からなされたのだ。これが私たちにとって究極のIDであり、永遠に変わることのない身分なのである。 「信じていれば洗礼は受けなくてもよい」という人がいる。私も中学生の時にそう思った。しかし、私たちの信仰がいかにもろいものか。ちょっとしたことで信仰は揺らぎ、神への信仰も怪しくなる。しかし、洗礼によって私たちに刻み込まれた神の宣言は、たとえ私たちが「神を信じない」と言ったとしても、取り消されることはない。私たちが神を離れたとしても、神が私たちを離れることは決してない。それが洗礼によって与えられる恵みである。時に、私たちは神の子らしく生きることの出来ない自分が嫌になることがあるかもしれない。しかし、あなたが神の子であり、神の喜ばれる存在であることに変わりはない。それが洗礼の恵みである。 洗礼は、また私たちを神の民としてこの世に遣わす按手でもある。私たちは、神の子として生きる喜びを告げ知らせるように、キリストを宣べ伝えるために、洗礼の恵みを分かち合うために選び出されたのである。洗礼は、使命を授かることでもある。一人一人の洗礼の恵みを覚えつつ、その恵みを伝えていきたい。
by nozomichurch
| 2017-07-23 10:30
| マタイ福音書
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