「二人の『王』」マタイ2:1−12 |
ヘロデ王は自分の地位を守ることに非常に執着した王であった。自分の立場、自分の存在を脅かす人間を彼はことごとく殺した。時には子息にまでその手は及んだ。皇帝アウグストゥスが「ヘロデの息子であるより豚の方がましだ」と言ったという。
必死に王の座にこだわり続けたヘロデであるが、ユダヤの民からの支持は低かったと言われる。それは彼の暴力的な振る舞いも理由であるが、何より彼が非ユダヤ人であったことが大きな理由だ。ユダヤ人にとって理想の王はイスラエルの歴史において栄光の頂点に君臨する「ダビデ王」であり、その子孫が再びダビデの王国を興してくれるという「メシア待望」が常にあったのだ。そのことがヘロデを余計に懐疑的にさせ、更なる暴力へ発展していたのだろう。
そのような中でヘロデは占星術の学者たちから、「ユダヤ人の王」として生まれた方について聞かされた。ヘロデにしてみれば衝撃的な言葉であったに違いない。「これを聞いて、ヘロデは不安を抱いた」(3節)。「ユダヤ人の王は一人だけだ。新しい王が現れれば、私はどうなるのか?」。そのような不安と恐れがヘロデを支配したのだろう。彼は、学者たちを利用して幼子のことを探させ、殺そうとする。最後には2歳以下の男の子を皆殺しにするという暴挙に出るほどであった。それほど新しい王の誕生はヘロデにとっては不安で恐ろしいことだったのだ。
よくよく考えれば、ローマ帝国に比べるならば、それこそ辺境のパレスチナにおけるちっぽけな「ユダヤ人の王」でしかないにもかかわらず、人々を殺し、家族を殺し、幼子の命まで奪ってまで、必死に自分の立場を守ろうとするヘロデの生き方、自分を守ろうとするヘロデの思い。これはヘロデだけのものだろうか? 権力を持つ者だけの問題だろうか? 「エルサレムの人も皆、同様であった」(3節)。新しい王の誕生の知らせを聞いて不安になったのはヘロデだけではなかった! エルサレムの人々も皆同様であった。エルサレムにいるみんなヘロデと同じだった。
ヘロデのように私の立場、私の願望、「私の」というものを後生大事に抱え込み、そこの囚われて生き続ける私たちの中にも巣くっているものである。私たちもそれぞれの小さな場で「王」となり、プチヘロデとして生きることがある。私たちの中にも「ヘロデ的なもの」がある。
マタイ福音書は、この私たちの中にある「ヘロデ的なもの」、自分を王、つまり自己中心的、自らを王にしてしか生きることができない私たちに対して、イエス・キリストの誕生という出来事を一つの問いかけとして語りかけているのだ。それは、あなたたちは、なおヘロデ的な者として、自らを王として、自らを中心として、生きて行くのか、それとも、そのような生き方をこえ、それを作り替え、新しい歩みへと導いてくださる、「イエス・キリスト」を心に抱いて生きて行くのか? クリスマスを祝い、新しい年を迎えるこの時、今一度、私たちの中心にいる王はどなたかを確認しよう。