「豊作死蔵」ルカ12:13−21 荒瀬牧彦牧師 |
自分がこの金持ちなら、同じことをするのではないかと思えるような譬え話。しかし、彼の発言を注意深くみると、問題点が浮かび上がってくる。直訳するばこんな感じだ。「私はどうしよう。私の収穫を私が納めるべき場所を私は持っていない。・・・私は私の倉をこわし、私はより大きい倉を建てよう。そして私はそこに私の全穀物と全財産を納めよう。そして私は私の魂に言おう。・・・」
彼の言葉はすべて独白。神への祈りはなく、周囲の人への相談もない。彼の視野には神も隣人も入っていない。彼は自分のために生き、自分にだけ語り、自分を祝福する。彼は自分の魂に自分で恒久安全保障宣言をする。しかしそれは虚しかったのだ。
愚かな金持ちは、何をしたのか。彼は豊作を死蔵したのである。神はそのことを問題とされる。なんのための豊作か。分かち合うためではないか。「わたしの豊作」ではないはずだ。なぜ貴重な豊作を、「わたしたち」のために活かそうとしなかったのか。
コリントの信徒への手紙二の8章に、エルサレム教会支援募金の話しが出てくる。 パウロはマケドニアの信徒たちのささげものについて証しする。マケドニアではキリスト者への迫害が厳しく、教会はとても貧しかったのだが、自分たちから進んで、エルサレムで困窮している兄弟姉妹への援助を申し出たのだった。「彼らは苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に惜しまず施す豊かさとなった」。貧しさが溢れ出て豊かさとなる?とても不思議なことだが、しかしそれが事実起こったことだった。愚かな金持ちが豊作を与えられながら、まったくそれを活かせないままに死んでいったのと対照的ではないか。
募金活動が頓挫していたコリント教会の人たちにパウロは、「自分が持っているものでやり遂げなさい」と勧める。そう、「自分が持っているもので」なのだ。あなたには持っているもの、神の託されたものがある。それを活かしなさい。それは言い換えれば、あなた自身をフルに生きよ、ということではないか。我々にも「持っているもの」がある。なのに「持っていない」もののことばかり気にして、「これがないから」と言い訳をする。ないものを嘆く前に、持っているものを本当に活用しているだろうか。半分も、いや一割も活かしていないのではないか。
フルに使ったら自分が空っぽになってしまう、と言うかもしれない。確かにそうだ。でも空っぽになったら、神が新たなものを与えてくださるのではないか。マケドニアの諸教会の人たちは、そういう恵みを経験したのだ。
星野富弘さんがこんな詩を書いている。プリムラ・マラコイデスの絵に添えられた詩だ。「新しい命一式/ありがとうございます/大切に使わせて頂いておりますが/仕舞いこんでしまうこともあり/申し訳なく思っております/いつもあなたが見ていて下さるのですし/使いこめば良い味も出て来るでしょうから/安心して思い切り/使って行きたいと思っております」