「御心に適う悲しみ」Ⅱコリント7:8-16 |
「涙の手紙」をテトスに託したパウロでしたが、コリント教会の人々が厳しい手紙を受け取り、よりかたくなになってパウロをさらに憎むことになりはしないかと不安になり、後悔もしたようです。しかし、コリント教会の人々は手紙を受け取り、確かに一時にもせよ、パウロの赤裸々な思い、真実を正面から突きつけられ、痛みを伴う経験をしましたが、悔い改めました。
コリント教会は本当に問題だらけの教会でした。しかし、この教会が私たちに残してくれた信仰の遺産は、悔い改めた教会であったことだ。問題は抱えていたけど、「ここ」というところで自らの過ちを認めるしなやかさを持っていた教会だったのです。
私たちは「自分」を常に中心に据える者です。いくら「真実」を前にしても、真実を隠してでも自らの正当性を主張するような者です。創世記3章に記されるアダムとエバの失楽園物語は、責任転嫁を繰り返し、自分の過ちをまっすぐに認めようとしない人間の自己中心的な姿を浮き彫りにしています。
このような経験を私たちはそれぞれの生活の中でしばしば経験します。夫婦などの人間関係においてもそうです。また社会の中でもこのような責任転嫁、自己中心的なやり取りはそこここにあります。原発の再稼働の問題や真実を隠していく体制などまさにそうでしょう。真実によって自らの過ちや罪を指摘されることは痛みを伴うものです。恥ずかしいものです。悲しくもなります。しかし、そこに生と死の分かれ目があるのです。
パウロのしたためた「涙の手紙」。主イエスというお方は、私たちにとっての神からの「涙の手紙」ではないでしょうか。自己中心的に生き、神を離れ、神なしに生きる私たちに、神様は主イエスというお方を通して、神に立ち返り、神の愛にとどまるようにと招いてくださったのです。このお方こそ私たちにとっての真実に他なりません。しかし、人々はこの「真実」を自分たちにとっての不都合な真実として十字架へ追いやりました。それが私たちの罪の真実です。レントに入ったこの時、自らの罪を受け止める痛みを、御心に適う悲しみにしたいものです。それは「取り消されることのない救いに通じる」のですから。