「慰めてくださる神」Ⅱコリント7:2-7 |
今週の13日でS兄が天に召されて5年が経ちます。S兄は癌を患う中で「迫りくる死を前にしてこの恐怖に立ち向かうには神様にひたすら祈り、守っていただくほかにはないと感じ」て教会へ来られ、洗礼へ導かれました。死が刻々と迫る中で病床で洗礼に与る時、S兄は「神により頼む平安を一人でも多くの人に伝えたい」と告白されました。
しかし、「神による頼む平安」を知り、洗礼を受けた後も、死の恐怖はS兄をこれでもかと苦しめました。「先生、どうしようもなく怖い。先生にはまだわからんでしょうがね。先生、とにかく怖いんです。夜がとにかく怖いんです。助けてください」と叫ぶようにして打ち明けられる日がありました。私はかける言葉を失っていました。ただ手を握り、唇を噛むだけでした。しばらくの沈黙の後、洗礼式の後に読んだ詩編23編を朗読しました。彼は目を瞑っていました。読み終えると「もう一度」と言われ、また終わると「もう一度」と言われ、3回詩編23編を朗読しました。3回目を読み終えた時、彼は大きな息を吐き「あなたがわたしと共にいてくださる。あなたがわたしと共にいてくださる。ありがとうございます」と言ってはらはらと涙を流されました。
「わたしたちの身にはまったく安らぎがなく、ことごとく苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」(5節)。どうすることもできない苦難に襲われる時があります。しかし、私たちがいくら揺れても、その傍らにいつも共にいてくださる方がいる! その事実は決して揺らぐことはありません。そのことに「ありがとうございます」と目を開かれることが信仰なのです。
パウロは私たちの神を「気落ちした者を力づけてくださる神」と言っています。「気落ちした者」とは、もう明日を生きる力を持ち合わせない者のことです。絶望の中で、孤独の苦しみを味わっている者のことです。そのものを神は「力づけてくださる」。これは「傍らに呼ぶ」、つまり「共いてくださる」ということです。気落ちした者と共にいてくださるのが神であり、それが私たちの唯一の慰めなのです。
この慰めの主こそ、主イエスです。主イエスがわたしの羊飼い。主イエスこそが「気落ちしている者を力づける神」です。主はその生涯を通して、そして何よりも十字架によって、見捨てられた寂しさ、痛みをすべて知ってくださった。 だからこそパウロは迫害の中で、苦難なの中で、「わたしは慰めに満たされており、どんな苦難のうちにあっても喜びに満ちあふれています」。十字架の主のゆえに! そう言い得たのです。この主が、また私たちの主なのです。私たちの苦難の中の慰めなのです。