「滅びない言葉」マタイ24:32-44 |
「主イエスは再び来られる」。初代教会において「終末」信仰は切実なものだった。でも、何か目に見える目盛があるわけではない。時には「主はもう来ないのではないか」という失望感が広がったりしたのだ。しかし、今日の個所でイエス様が私たちに言われていることは、「その日、その時は、誰も知らない」のであり、「いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなた方には分からない」、「人の子は思いがけない時に来る」ということだ。「思いがけない時に来る」というのは、原文では現在形進行形担っている。主イエスは「今すでに向かっている」。だから「目を覚まし」、「わきまえていなさい」と主は弟子たちに言われるのだ(42-43節)。
主イエスは、ノアの物語に触れながら、「人々は食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしていた。そして、洪水が襲ってきて一人残らずさらうまで、何も気がつかなかった」(39節)。創世記6章に記される箱舟の大きさは相当なものだから、ノアが船を造り始めてから完成に至るまでには相当の日数がかかったはずだ。人日の目にもとまったはずだ。しかし、「何も気づかなかった」。気に留めなかった。
私は最近、神学生時代に卒業論文を執筆する時に読んでいた本を読みなおして愕然とした。そこに、「聖書の使信と反核の思想――現代文明の破局を超える」というタイトルの章があった。そこには今まさに起こっている原発の危険性が、文字通り預言的に記されていたのだ。少なくても私はそこにも少なからず「線」を引き読んだ形跡が残っている。しかし、「核」に対して、いやそこで展開されていた原発の問題については当時全く「無関心」であった。私も「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだり」と自分たちの日常に埋もれ、「その時」まで何も気がつかなかった者の一人だ。
「目を覚ます」という言葉には「見張る」という意味がある。目を覚ますということは、今を見張るということだ。キリストが来られる時まで、この世の動きを「見張る」務めが委ねられている。その見張りの務めを疎かにするならばその責任は「見張りの者」に問われる。
主イエスが来られる時、弟子たちは問われる。教会は、キリスト者は今、目を覚ましているか? 主イエスが来られる! という神の救いの歴史に、出来事に目を向けているか? そのことが今日の主イエスから問われるのだ。「聖書をよく読め。そして新聞をよく読め」と恩師はしばしば神学生たちに説いていた。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」(35節)。主イエスの言葉、主イエスの出来事に真剣に向き合う時、「今」私たちが何をなすべきかが分かってくる。「目を覚ましていなさい。信仰に基づいてしっかり立ちなさい。雄々しく強く生きなさい。何事も愛をもって行いなさい」(Ⅰコリント16:14)