「生きている者の神」マタイ22:23-33 |
主イエスはそれに対して「あなたたちは聖書も神の力も知らないから思い違いをしている」(29節)と答えられた。神殿のエリート組で、聖書を熱心に研究しているサドカイ派の人々が、「聖書も神の力も知らない」と言われる。これは他人事ではない。私たちもともすると自分たちの結論ありきで聖書を読むことがないだろうか。自分の結論を聖書に求めることがないだろうか。神学校時代に「よく知っていると思っている個所ほどよく読みなさい」と恩師に言われたことを思い出す。
「力」はダイナマイトの語源となった言葉である。少し乱暴かもしれないが、「聖書や神の力」は私たちが勝手に作りだす囲い、前理解、枠組み、「こんなことはありえない」という常識を打ち壊す「力」なのである。そのことを「知らない」と「思い違い」(「とんでもないところへ行く」という意)をしてしまうのだ。
「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」。復活の時には、この地上での夫婦の関係性がそのままあるというのではない、という主イエスの言葉に心を揺さぶられる。特に愛する人を天に送った経験を持つ者たちにとって復活の時にこの世の関係性を否定するようなこの主イエスの言葉はあまりにも冷たいのではと感じてしまう。「また会う日まで」と涙を流して讃美歌を歌い、御国での再会こそ私たちの希望であり慰めではないのか。容易に「アーメン」と言えない言葉である。
しかし、この主イエスの言葉は、愛する者を天に送った者たちの望みを冷たく打ち砕くような言葉ではない。復活はあるのか、ないのか。あったらどんな状況になるのかと、私たちの考えられる思考の中で「復活」を思い巡らし、迷い出てしまうところから引き戻そうとする恵みの言葉なのである。この地上の延長ではなく、「天使のようになるのだ」。
主イエスは、このやり取りで復活について「Yes」、「No」で答えてはおられない。ただ神はどのような方であるかを伝えておられるのだ。神は「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」とあなたがたに言われたではないか! 「であった」という過去の神ではなく、「である」方として出会ってくださる。アブラハムも、イサクも、ヤコブもみんな既に天に召された人たちだった。しかし、主なる神様は今も「アブラハムの神である」とご自身をわたしたちに顕わされるのだ。主なる神は今も生きておられ「生きている者の神」として私たちに出会ってくださる。
このことを語られた主イエスは、十字架の死を突き抜け、私たちの初穂となられた(Ⅰコリ15:20)。主イエスこそが「わたしはある」と言われる方として、私たちに「今・ここで」出会ってくださる「生きた者の神」に他ならない。この望みこそ生きる時に、答えの出ない問いから解放され、生ける者の神と共に私たちが生きる者となるのだ。