「後で考え直して」マタイ21:28-32 |
たとえだけを読むと、神様のとの関係において口ではなく、実際の行動がより大切だというメッセージに思う。実際にそのような説教もされることだし、私たちにとって信仰の実践はとても大切なことだ。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」(ヤコブ2:17)。
しかし、今日の28-32節個所全体から読むと必ずしも「言葉より行動」ということが中心的メッセージではないようだ。今日の個所全体を一つメッセージとして読むと今日の個所の前半にも、後半にも登場する「後で考え直す」ということが中心となってくる。 前半のたとえも「ぶどう園に行ったかどうか」という点ではなく、「後で考え直した」というところに個所の大切な点がおかれているのだ。
自分たちこそ「権威」がある者と自負している祭司長や長老たちは「ヨハネが来て義の道を示した」のに彼を信じなかった。彼らは自分たちこそが「正統派」であり、正しい者たちであり、「権威」ある者であるとしていた。自分たちこそ「主よ」と主を礼拝し、「父の望みどおりにしている」と自負するものだった。徴税人や娼婦たちが信じているのを見ながらも、「後で考え直して」ヨハネを信じようとしなかったかたくなな姿勢が主イエスによって問いかけられているのだ。
今日は9月11日である。「同時多発テロ」が起こった2001年9月11日からちょうど10年が過ぎた日だ。9・11から世界は「対テロ」、「大量破壊兵器」という、あくまでもカッコつきの「大義」を抱えて戦争へと突き進んで行った。ブッシュ大統領の口からは嫌というほど「神」という「言葉」が使われた。「『真理』、『正義』、『自由』、『善』である我々が、「悪の枢軸」を叩く」、「アメリカ国民の善性、理想、信念には、驚くべき御業をされる神の力が宿っている。そのアメリカに味方しないことは『悪の枢軸』に加担して滅びることは必定である」と大統領は演説していた。残念ながらアメリカの多くの教会で、おそらくアメリカ南部にある私たちカンバーランド長老教会でも、ブッシュ大統領の発言は人気を博したことだ。私たちの国は、ブッシュ、コイズミ路線で真っ先にそのアメリカの後ろについていった。あれから10年が経つこの日の朝に、私たちに与えられた御言葉の中に、繰り返し「後で考え直す」という言葉が与えられていることを私たちは、「どう思うか」。
9・11に大きく出るように、私たちは自分を正当化する努力を惜しまない。それは時として人を排除してでも自分の正しさを誇るものだ。しかし、主イエスは十字架で殺されたお方である。この方が私たちの主である。自らの正しさを誇り、力を行使する私たちはこの主の「のぞみ通りにしたか」。「後に考え直す」時は、今ではないか。