「委ねられたぶどう園」マタイ21:33-45 |
このたとえを読みながら、創世記に記される天地創造の物語から失楽園の物語を思い起こした。天地創造の物語では神の「良し」が繰り返し語られる。主イエスの譬えで言われているように、行き届いたぶどう園が作られたのである。そうやって整った状態で、神は人間にその管理を委ねられた。しかし、人間がそれを破壊してしまったのだ。よく管理するどころから、好き勝手に支配してしまった。
創世記3章に記されるアダムとエバの物語は、今日のたとえで農夫たちが「我々のものにしよう」と語った出来事と響き合う。神のものを「我々のものにする」。ここに人の罪があるのだ。この「私有化」、「私物化」によって「ぶどう畑」は「血を流す」場になってしまっている。現代における環境、経済格差、飢餓、争い、そして今私たちが直面している放射能の問題は、神が創造された「ぶどう園」を「我々のものにしよう」とする人間の罪から出ていることと言えるんではないだろうか。
最近、昔の大河ドラマ『独眼竜正宗』を妻とDVDを借りて見直しているが、正宗も、秀吉も、最上も、相馬も、口々に言うのだ。「天下を我がものに」と。そして「戦」が延々と繰り広げられる。私たちは戦国武将のように馬に乗って「天下を我がものに」と戦をするものではないかもしれない。しかし、どこかで「天下をわがものに」、「天下はわたしのもの」という生き方をしていないだろうかと考えさせられた。我が家でも連日のように「わたしのもの」と声を張り上げて兄と妹の「戦」が繰り広げられている。「自分」という中心が私たちの中には常にあるのだ。
「神を忘れ、他者を忘れた自己実現は、人間を化け物にする」。極めてよかったと創造された人間が、神を忘れ、他者を忘れ、「我々のものにしょう」と私有化に走る時に、人間は欲望の化け物になるのだ。その時に、人間は預言者だろうと、神のひとり子であろうと排斥し、ついには殺してしまうものなのだ。
しかし、「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」。これは私たちが、神様に委ねられたぶどう畑を「我々のものにしよう」と強奪し、主人の息子を殺したような者にもかかわらず、その捨てられたキリストが、なお私たちの隅の親石として私たちを招いていてくださっているということだ。キリストこそが私たちの社会の、私たちの人生のなくてはならない「隅の親石」であるのだ。「自分」を中心に据えるところから、キリストを「隅の親石」にする。これがこの個所から問われることだ。そこから主に一人一人が「委ねられたぶどう園」に遣わされて行こう。