「婚宴に招かれたら」 マタイ22:1-14 |
私たちは「婚宴への招待」を大切なことだと受け止めるものだ。「万障繰り合わせて」喜びの席に参列しようとするものだ。「天の国」とはまさにこの婚宴の招きとそれに対する応答によるものだとイエス様は語られたのだ。しかし、イスラエルの民はそれを無視し拒んだ。なぜか。「一人は畑に、一人は商売にでかけ」たからだ。口語訳の方が原文の意を表していて「自分の畑」、「自分の商売」と「自分の」という言葉を訳出している。人々は王子の婚宴に出かけるよりも、「自分の畑」、「自分の商売」に心が向いていたということだ。彼らにとって「自分の畑」、「自分の商売」が大事なのであって、王の婚宴への招きはそれに比べると無視するに足りることだったのだ。
「畑」も「商売」も私たちのとって大切なものだ。それ自体決して悪いものではない。しかし、王が用意されている喜びの宴、祝いのに心を向けなかった。そこにあるのは、滅びである。主イエスははっきりとそれを語られたのである。そしてマタイはそれを70年のエルサレム崩壊に見たのである。
そのような歴史における裁きと言うのは、私たちも経験する1945年8月15日の出来事も、2011年3月11日に端を発した原発の問題も、「自分の畑」、「自分の商売」に私たちが心を向け続けたことと無関係ではないのではないか。「自分の畑」「自分の商売」、自分の生活、自分の人生、「自分の」が中心になり、「神の招き」に心が向かない。しかし、そこにこそ「的」を外してしまう私たちの罪の歩みがあるのだ。
「招かれる人は多いが、選ばれる人は少ない」(14節)。神様の「招き」と「選び」との間には、「招きに応える」という私たち主体的な応答があるということだ。神様の「選び」というのは、人によって招きが受け止められ、そして、その招きに応答する歩みを通して、初めて私たちの生活の中で、「選び」が現実的なものとなるのだ。
一人の人が「礼服」を身につけていなかったことが問題となる。婚宴にふさわしい「礼服」とは何か。マタイ福音書における「礼服」は「義」と言える。「神の国と神の義をまず求めなさい」。これが王の婚礼にふさわしい服であると言えるでしょう。私たちは「自分の畑」「自分の商売」、そして自分の洋服を身につけて生きる者だが、パウロは「キリストを着る」といった。「自分の」上に「キリストを着る」。これこそ王が私たちに用意してくださった礼服である。キリストを身にまといこの週を歩もう。