「偉くなりたい人は」 マタイ20:17-28 |
ところが衝撃的なことに、主イエスが、「引き渡され、侮辱され、鞭打たれ、十字架につけられる」と予告されたまさに「そのとき」(20節)にゼベダイの息子たちの母が、二人の息子を連れて、イエス様の所に来てひれ伏して、「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください」(21節)と願い出たというのだ。
ゼベダイの息子、ヤコブとヨハネはペトロやアンデレと同じガリラヤの漁師であった。彼らもペトロたちと同じようにイエス様に呼ばれるとすぐに「舟と父親を残して」従った者たちだ。仕事も家も残して主イエスに従う信仰を持っていた兄弟だ。しかし、旅を続ける中で無意識のうちにライバル心が芽生えたのかもしれない。特に同じ漁師出身で、「天の国の鍵を授ける」と主イエスから言われたペトロを特別意識したのかもしれない。
しかし、これはヤコブとヨハネ、そしてその母親だけの思いや願いではなかった。他の十人の弟子たちも同じだったのだ(24節)。それほどにまで、人にとってポジション争い、人より上に立ちたいという欲求、願望というのは拭いがたくあるということなのだろう。誰がトップで、自分は誰より上で、誰よりは下かもしれないと、常に人を見て自分の位置を確認しようとする。誰かの下よりは、なるべく上の立場にいたい。そういう欲求を人間は持っている。そして、その欲求が強くなればなるほど、ポジション争いは醜くなり、時には個人を越え、家族単位の争いになり、ついには国同士の争いにさえなりかねない。
私たちの生活の中で色々な覇権争いがあり、上に立ち力を持つ者が偉いものであり、価値のあることということが当然の価値として私たちに植えつけられている。しかし、主イエスは、ここで全く反対のことを言われる。「あなたがたの中で偉くなりたい者は、皆に仕える者になり、いちばん上になりたい者は、皆の僕になりなさい」(27節)。
「仕える者」は奉仕者とも訳されるし、ルカ福音書では「給仕する者」、すなわち食事を整える者の意味で使われている。「僕」とは直訳すれば「奴隷」だ。当時の社会では、食卓における給仕の仕事は、奴隷や身分の低い人たちがすることで、ご主人様とか、自由人、社会的身分の高い「偉い人」のすることではなかった。「偉い人」は、人の上に立ち、人を使い、力を持つことが「偉い」(メガス=大きい)というのが社会の価値基準だった。しかし、主イエスはそれを文字通りひっくり返された。根本的に転換した衝撃的な教えを、出世争いを繰り返している弟子たちに告げたのである。
「主であり、師であるわたしがあなたがたの足を新たのだから、あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13:14)。神の子、つまり最も「偉い」方の歩みこそ私たちの「模範である」(ルター)。私たちの模範は弟子の足を洗われた主であり、仕えるために、多くの人を罪の縄目から解放するために、身代金として自分の命を献げるためにこられたメシアである。この方がもっとも「偉い」方なのだ。