「強盗の巣にするな」 マタイ21:12-17 |
神殿では、神殿内専用の通貨に両替する必要があった。だから境内には両替人がいたが、彼らはかなりの手数料を取っていたという。また祭儀に使う動物を扱う人々はもっと悪質だった。巡礼者は自分たちで犠牲として用いる動物を用意してもよいのだが、動物に傷があってはならなかった。だから自分たちで鳩などを用意した場合は必ず祭司にチェックを受けなければならかった。その検査は必ずといっていいほど「不合格」とされた。その結果巡礼者は境内にあるお店から犠牲の動物を買わなければならなくなっていた。場外の10倍以上もする金額で・・・・・・。祭司と商売人の癒着の構造。宗教のシステムを利用して私腹を肥やす人々が神殿を牛耳っていた。しかも、その多くはガリラヤなどに農園を持つ大地主だった。主イエスの荒々しいまでの行為は、神の名を利用しながら貧しい人々からさらに搾取を重ねようとする神殿体制そのものへ批判行動である。
先日のユースキャンプでアッシジの聖フランチェスコをモデルにした『ブラザーサン・シスタームーン』という映画を観た。12世紀後半を生きたフランチェスコはある時、ミサの最中に神からの迫りを受ける。綺麗に聖堂で祭司や金持ちたちは綺麗に着飾り、荘厳な礼拝が進行していく。奴隷や貧しい人々は、後ろの方で疲れきったうつろな目をしてミサに参列している。その中で聖画の中のイエスの顔が、十字架で苦悶するような主イエスの顔がフランチェスコに迫ってくるのだ。彼は「ノー」と絶叫した。「このミサは違う」。貧しい人が踏みにじられ、そのことを何も問うことなしに、神に対して礼拝が、荘厳に行われている。フラチェスコはそこに「ノー」と言った。
私たちは今日、8月15日にもっと近い今日の主日を「平和主日」として礼拝を守っている。私たちが求める「平和」、聖書の語る平和とはただ戦争がない状態ではなく、人間と被造物世界の全体が、いのちに溢れて共に生きる状態のことだ。旧約学者の木田献一はシャロームとは「人間相互の対立を打ち破って、権力におごるものを低くし、低くされている者を力づけて、神の前に相互に等しく充実した喜びと愛の交わりを作り出すこと」と言う。
主イエスは、「わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである」と言われた直後に、目の見えない人や足の不自由な人々をいやされた(14節)。これは「祈りの家」でささげられる祈りがどのような祈りであるかを具体的に示された行動といえるだろう。「祈りに熱心」であった祭司長や律法学者たちはイエスを放って置けなくなる一方で、彼らが軽んじていた小さな子どもたちは主イエスを讃美したのである。
戦争の勝利を祈る教会が祈った歴史がある。今もCPCのチャプレンは祈りを持って戦地に送られている。私たちは本当に神の御心を中心とした祈りをささげているのか。いかなる祈りをささげているのか。平和主日に礼拝を守る私たち一人一人が問われている。