「何の権威で」 マタイ21:23-27 |
御自分の権威について尋ねられた主イエスは、その問いに直接はお答えにならずヨハネの洗礼について逆に問われた。祭司長たちは、主イエスからの反論や群衆を恐れて「分からない」と答えた。権威ある者が、自己保身に走る時に「分からない」と答えるのを、私たちもこの半年間多くの場面で耳にした。また「分からない」と答えることは、私たちが自分たちの小さな「権威」、立場を守ろうとする時にも、使う言葉である。いずれにせよ、答えを保留した彼らに「それなら、何の権威でこのようなことをするのか、わたしも言うまい」と答えられた。主イエスは、「権威」を巡る問答で、「自らの権威について」答えられなかった。それが主イエスの答えなのだ。
祭司長たちは「何の権威で」と主イエスに質問しにきたが、それはただ自分たちの権威を主張しているにすぎない。それに対して、主イエスは「あなたたちが『神の権威』を主張するならば、わたしはあなたたちが主張するような『神の権威』は語るまい」。主イエスは、彼らが問いかけてきた「権威」について答えないとことで、彼らの権威を否定された。
「権威」というギリシャ語の第一義的な意味は「自由」である。権威というのは、人を支配し、従わせる力のように私たちは思っているので、権威が「自由」とは意外な感じがする。しかし、まことの権威とは「自由」なのだ。それは神から出る権威なのだ。
マタイ福音書で主イエスは、「すべてのことは、父からわたしに任されています」(11:27)と言われている。イエス様には、すべてのことが任されている。しかし、主イエスの示された権威とは、人を力ずくで屈服させる、この世のわかりやすい権威では決してない。
主イエスはご自分に一切のことが任されていることを語る時に、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」(11:25)と言われている。
主イエスの「権威」は隠されているのだ! クリスマスの出来事も、主イエスの歩みにおいても、このエルサレムの中でも、いつも知恵ある者、賢い者(往々にしてそのようなものが「権威ある者」とされるが)には主イエスの「権威」は隠されている。そして幼子のように、何の力もなく、権限も、権利もない者たちは、主イエスの権威が示された(Ⅰコリント1:18以下を読もう!)。
私たちキリスト者は、この世の権威ではなく、十字架にこそ「神の隠された権威」があることを真剣に受け止めて生きる民である。人を支配する権威がはびこる世にあって、人に仕える権威に生きる。経済が権威を持つような世にあって、神に与えられた「いのち」の権威に生きる。人を傷つける世にあって、命をかけて隣人を愛された主イエスの権威に従って生きる。そこに私たちが従うべき十字架の道がある。