「収穫は多いが、働き手が少ない」マタイ9:27-38 |
しかし、イエス様は、大きい町も、小さい村も残らず回られた。人がいっぱいいる所の方が効率がいいとか、あっちの村の方が自分を支持してくれそうだとか、そういうことでイエス様は動く方ではなかった。すべての町、すべての村を巡り歩いたということは、イエス様はすべての人々の所にわけ隔てなく、来てくださる方ということだ。それはすべての人に教え、宣べ伝え、すべての人のすべての病や患いを癒す、それが主イエスのミッションであったからだ。
しかし、教会の中で時々、合理的に考えたり、費用対効果で教会の働きを考えたり、評価したりすることがある。これだけのお金と時間を使って、成果はこれだけですか? と。しかし、主イエスのなされたミッションは、ある意味で合理性とか、採算性というものを越えて行われるものであることを私たちは忘れてはならない。
イエス様は深く憐れまれるお方である。だから、「群衆の弱り果て、打ちひしがれるのを見て」じっとしていることが出来ず、すべての町や村を巡り歩かれた。深く憐れむというのは、単なに「かわいそうだな」とか、「お気の毒に」というレベルのことではなく、はらわたがキリキリと痛くなるような深い痛みの共感を表すことだ。
イエス様の宣教は「はらわた」から出発している。まさに教会の宣教というのは、この主イエスのみあとを辿ることに他ならない。私たちには、主イエスのような深い憐みを表すことは出来ない。聖書もこの「深く憐み」と言う言葉を主イエスにしか用いていないことからも、本当に深く憐れむ愛の関わりは主イエスによってしかできないことを表現していると思う。しかし、だからと言って主イエスは、あなたたちは私のように「深く憐れむ」ということは無理だから、なにもしなくてよいと言われたのではない。驚くことに主イエスは、「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送って下さるように、収穫の主に願いなさい」(38節)。
イエス様は、本当に多くに人が痛み、苦しんでいる。その一人一人に、主なる神の愛を届けるには、働き手が少ない。働き手が必要だ、と弟子たちを招いておられる。それはイエスの使命が、教会のミッションとしてゆだねられているということのだ。
「弱り果て、打ちひしがれた」人々が大勢いる。今こそ、教会が社会の中で証しする時だ。一人一人の存在は神様に愛された存在であることを、イエス・キリストが命を投げ出された程、愛された存在であることを言葉を通して、行いを通して伝える「働き手」が必要とされている。 献堂46年。新たな思いでゆだねられた教会の使命に生きたい。主イエスから命じられたことをひたすら行う。これ以上の教会の務めはない。