「聞いて行う者」マタイ7:15-29 |
私たちはこの主イエスの話がただ家を作る話だったら、安心して聞けることだ。しかし、主がここで言われるのは、家の作り方ではない。主イエスの言葉、「わたしのこれらの言葉」を聞いている人々が、すなわち「山上の説教」を「聞いて行う」のか、それとも「聞いて行わない」のかが問題とされているということである。
プロテスタト教会は「信仰は行いではない」と言う。しかし、信仰義認は、行いは一切関係ないという教えではない。主イエスはむしろ山上の説教の締め括りにおいて「御心を行う」こと、「聞いて行う」ことが決定的に大事なことだと語っておられるのだ。
では、「聞いて行う」とは、山上の説教で示されたことを落ち度なく実行していることだろうか。もしそうなら、誰も岩の上に家を建てられないだろう。「聞いて行う」とは、実行の可否が問題なのではなく、主イエスが山上の説教を通して明らかにされた、新しい生き方を私たちに示す主イエスの言葉を、割り引くことなく、そのまま信じて受け取るかどうかの問題なのだ。「自分にはできない」とか「非現実的」と留保をつけて、イエスの言葉を受けると事をしない人は、結局、主ではなく自分のことを判断基準として信じているのだ。
旧約聖書に登場するノアという男は、「すべて神が命じた通りに果たした」(創世記6:22)。晴れ渡った日に洪水に備えて箱舟を作る姿は「愚か」に見えただろう。しかし、「かの日」、それがどんな結果になったかご存知の通りである。神の言葉を「聞いて行う」賢い人とは、この世からみればちょっとずれていて鈍くみえるかもしれないノアのような人だ。そして、何よりも主イエスご自身が十字架の死に至るまで神の言葉に従ったお方であった。
主イエスの言葉を聞いた人々は、「非常に驚いた」。パニック状態を含んでいる意味だ。なぜならイエスが権威ある者としてお教えになったから。権威とは「作者の権利」だ。それこそ私たちの創造主として語られた権威ある言葉だ。それは実はわたしたちをまことに生かす言葉!! 命に通じる言葉! それをただ聞き流すのは、「砂の上に家を建てる」ほど愚かなことだ。
「不法がはびこるので、多くの人の愛が冷える」(マタイ24:11)と主は言われた。その中で「愛」を説いた山上の説教を割り引くことなく、「聴く」者たちが呼び求められているのである。「聴くは聞くとは違うなり。・・・・・・聞くは、きこえるなり。聴くは、きこうと思うてきくなり」。主イエスの言葉を私たちは、ただ耳に聞こえてくる「声」として聞くのか。それとも、その声が神の恵みによって生きる新しい生き方を私たちに示す声として「きこうと思うてきく」のかである。