「水の上を歩く」マタイ14:22-33 |
この状況は、復活以後の教会の情況と似ている。弟子たちは逆風のため波に「悩まされていた」わけだが、この「悩む」という言葉には「拷問を受ける」という意味がある。初代教会のキリスト者たちは迫害を経験する中で、「拷問を受ける」という嵐の中で悩まされていたのだ。そしてその深い悩み、痛みの中でその舟にイエス様が一緒にいないことが彼らを不安にさせ、悩ませた問題だったに違いない。「もう助けは来ない。救いはない」。そんな恐れ、不安、深い絶望から来る孤独が逆風と荒波に翻弄されていた弟子たちの心を支配していた。
しかし、主イエスは「夜が明けるころ、イエスは湖の上を歩いて弟子たちのところへ行かれた」(25節)。昨年起こったチリの落盤事故の救出が完了するにはしばらくの時間を要した。しかし、救出作戦は事故後「すぐに」(27、31節)開始されていた。深い地底からの救出に時間が要するように、荒れ狂う湖、荒れ狂う逆風の試練の中からの救いは、時として時間を必要とする。それは忍耐という形で私たちに求められることなのだ。私たちが忘れてならないのは、私たちが悩みの中にある時に、すでに主イエスの救いの歩みは始まっているということだ!
そしてイエス様は苦悩する弟子たちに近づき「安心しなさい。わたしだ(エゴ・エイミー)。恐れることはない」と声をかけられる。「エゴ・エイミー」は「わたしがいる」とも訳せる。つまり「わたしだ」というのは、「わたしはあなたと共にいる」、インマヌエル!の宣言なのである。逆風の中で舟を漕ぎ悩む弟子たちに「安心しなさい。わたしはあなたたちと共にいる。だから恐れるな!」そう語りかけられているのだ。
主イエスは逆風と、高い波に悩む弟子たちの所へ湖の上を歩いてこられた。八方塞の弟子たちの状況に思えるような中にあっても、私たちには想像することもできない「道」、荒れ狂う水の上を通ってきてくださるがおられる。主イエスに従う者たち(教会は)、このことをしっかりと知らなければならない。そして、そのお方を希望の主としてこの行き詰った時代の中で、混沌とした時代の中で力強く証する務めが委ねられていることを私たちは自覚する必要がある。
私たちの信仰は、水の上を歩き、そしておぼれかけたペトロと同じ。信仰と疑いの両方を持ち合わせている。しかしペトロは「主よ、助けてください」と叫んだ。イエス様はすぐに手を伸ばしてペトロを捕まえてくださった。疑い、迷う者を主は捕らえ、そしてもう一度信仰へと私たちを招いて下さる。新しい年が始まっている。この年も決して順調な時だけとは限らないだろう。予期せぬ出来事、逆風、荒波を経験するかもしれない。しかし、水の上を歩き私たちに近づき、そして捕まえてくださるお方がいる。そのお方を覚えよ!