「御言葉を聞いて悟る人」マタイ13:1-23 |
たとえでは四つの土地が比較されて語られている。人が歩いて踏み固められてできるのが「道端」だ。私たちの心の中にも「経験」や「実績」というもので踏み固められた道が出来る。年齢や経験を積み重ねる中で道が踏み固められていくように、わたしたちの心も踏み固められていく。それが道端の心。このような心では福音の種は目を降ろさず、次々と鳥が来てついばんで行ってしまう。
「石だらけの所」。これは御言葉を聞いてすぐに喜んで受け入れるが、「根がないので」すぐにつまずいてしまう。御言葉を聞いてすぐに喜んで受け入れることは、決して悪いことではない。ペトロたちだって、イエス様に招かれて「すぐに」従った。しかし、問題は「根がない」ので、御言葉のために艱難や迫害が起こるとすぐにつまずいてしまうことだ。俗っぽい言い方をすれば「信仰的根性」がないのだ。これは自分の興味関心がある時や、自分が安心して集える時だけしか御言葉を聞こうとしない姿といえる。「わたしのためのキリスト」、「わたしのための神様」でしかないのだ。勿論、信仰の始まりは「わたしのためのキリスト」から始まる。しかし、信仰はそこからもう一歩深め、根をはる必要がある。それが「キリストのためのわたし」である。根性の据わったパウロの言葉を聞こう。「キリストのために苦しむことも、恵みとして与えられているのです」(フィリピ1:29)。
「茨の間」とは「世の思い煩いや富の誘惑」で御言葉が覆われてしまうことだ。心が二つに分かれているありようを示している。「あなたがたは、神と富に仕えることはできない」(マタイ7:24)。
「悟る」何ていうと「聞いて悟りを開く」みたいで非常に高尚で、達観した世界に開かれるようなことを思うかもしれない。しかし、ここで言う「悟る」と言う言葉はそういうことじゃない。ある牧師は、悟るというのは、「神様の主権を認めると言う意味だ」と言う。自分本位で御言葉を聞くのではなくて、神の主権の中で御言葉に聞く。自分の感情や判断ではなく、私は神の主権を認めて、それに従う」ということだ。どんな時にあっても、主の前にでて、心を定めて聞き従おうとする。その時に予想を超えた神の恵みがある! 神の御言葉はそのような出来事を引き起こす、ということだ。
私たちは自らを省みれば、まさに私たちは道端であり、石ころだらけであり、茨のような心であることを知る。しかし、にもかかわらず主イエスは「あなたがたの目は見ているから幸いだ。あなたがたの耳は聞いているから幸いだ」(16節)と弟子たちに呼びかけてくださっていることが大切だ。主イエスとの恵みの出会いを与えられ、主イエスは福音の種を、神の愛の種をあなたたちの良い地に蒔かれている。だから、主イエスを拒む人と一緒に、決して道端や石地や茨の中に蒔かれた者たちのように生きるな、神の豊かな実りを受けよ。そのような呼びかけなのだ。
来週からアドベントにはいる。クリスマスとは本当に神様の愛がこの地に蒔かれた出来事だ。わたしたちの良い地でその愛の実りを育んでいきたい。