「空の鳥を見よ、野の花を見よ」 マタイ福音書6:25-34 |
「思い悩むな」(心が虜になるという意味)。思い悩みの中にある時に、その言葉を素直に聞くことは難しい。ナイフを突き付けられるよう感じるかもしれない。しかし、イエス様が「思い悩むな」と言われるのは、「心配したってしょうがないからクヨクヨするなよ」といったようなありきたりの人生論を語っておられるのではない。そうではなく、イエス様は私たちと人生の間にこれまでとは全く違った新しい事態を示されているのだ。「思い悩むな」という主の呼びかけは、虜になっている心を解放する福音の知らせなのだ。
イエス様は「空の鳥をよく見なさい」、「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と呼びかけられる。空の鳥はルカ福音書ではカラスと描かれている。注目される鳥というよりは、誰からも目にとめられないような鳥であるし、レビ記では汚れた鳥として数えられている。野の花も文語訳では「野の百合」と訳されているが原語ではただの「草花」である。しかも「明日は炉に投げ込まれる野の草」(30節)であるのだ。だから鑑賞に特別に選ばれている草花というより燃料として燃やされるにすぎない野の草花である。そのような誰の目からも注目されないような鳥や野の花をよく見よ! 空の鳥は、「種も蒔かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない」。野の草は「働きもせず、紡ぎもしない」。にもかかわらず、そこには神の養いと配慮が行き届いていることが分かるではないか。それならばまして、日々種を蒔き、刈り入れながら労苦しているあなたがたを神の養いの中から漏れているはずがないではないか! そうイエス様は語られているのである。
山上の説教を聞いていた聴衆たちは「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(5:24)たちであった。イエス様は彼ら/彼女らが「苦労」を抱えながら、一所懸命に生きていることをご存じであったに違いない。天の父が、鳥を養われるならば、ましてそれよりも大切なあなたがたを養われないはずがないでしょ? とイエス様は語りかけられた。そして目の前にいる一人一人の存在をソロモンの栄華よりも尊いものとして受け止められている。それが神様にとってのあなたたちの存在だ、とイエス様は語りかけられたのである。
思い悩み、心が虜になるとき、私たちの心は石のように硬くなる。そして色々なものを受け入れられなくなり、孤独を深める。ついには、自暴自棄になり、明日を生きる力を失ってしまうような、そんな絶望感にとらわれてしまう。しかし、独り子イエス・キリストを与えてくださった、その命までかけてあなたを救おうとされた神が、あなたに最善を与えないはずがない。だから、「思い悩むな!」。そこには「神があなたと共にいる」という約束に裏付けられたよき知らせの言葉に他ならないのである。「空の鳥を見よ、野の花を見よ」。その時に神の愛があなたに届けられていることを覚えよう!