「律法の完成」 マタイ福音書5章17-20節 |
律法の完成者であるイエスさまの律法に対する振る舞いは、大変自由なものだった。律法学者たちの反対を押し切り、安息日に病人を癒したり、徴税人・罪人と当時ファリサイ派の人々を初め、社会から見下げられ、交流が好ましくないといわれていた人々と共に食卓を囲んだり、皮膚病の人に触れたり、長血で苦しむ女性に触れられたり、律法によって引かれた境界線をイエス様はいつも簡単に乗り越えていかれた。
イエス様の行為は、律法を重んじる人々からすれば、律法を破壊する行為と映っただろう。またその自由な振る舞いは、主イエスに従う者たちの間でも、「律法は廃止された!」と好き勝手行き始める人々が出るほどだった。しかし、イエス様は「律法の文字から一点一画が消え去ることはない」と言われた。主イエスは律法を破壊したわけでも廃止したわけでもなかったのだ。
そもそも律法は、神様に選ばれた人々に与えられたものだ。人々が律法を守って、神に選ばれたのではない。神がまずイスラエルの人々を奴隷の状態から救い出された。その救い出された民に十戒をはじめ、律法が授けられたのである。だから、イスラエルの人々にとって本来、律法を守るということは、神の契約の中に加えられるための手段ではなくて、神の民として、神との契約の中での生き方であったのだ。神の民になるための条件ではなくて、神の無条件の選びの中で選ばれた民として、どのように生きるか! どう生きるべきか! そのことを定めたのだが律法なのだ。
それがいつしか神の救いを得るための条件のようにされた律法の使い方、自分たちだけが神に受容され、律法を守れない人々は排除するようなあり方に、イエスは批判し、律法の精神、本質を回復させられた。それは「律法全体と預言者はこの二つの掟、神への愛と隣人への愛に基づいている」。つまり、律法の精神は、律法の本質は「愛」に集約されていることを繰り返し、語っておられるのだ。何よりも神がまず私たちを愛してくださった! それが私たちの根本なのだ、と。それこそが私たちの始まりであり、土台である。
独身男性をだまし金品を奪い取り結婚詐欺で逮捕された女性の記事が新聞に載っていた。現在4人目の彼女の夫は「彼女と一緒に被害弁償する」と裁判で語ったという。検察官は「あなたもだまされている」と夫を諭したそうだ。それでも、この夫は記者に向かって「たとえ詐欺師でも、おれを孤独から救ってくれた。待っている人がいれば、きっと変われる。あいつを信じるっきゃねえべ」と語る。
何と愚かな人だと思う。しかし、私たちのために御子の命かけてくださった神の愚かなまでの愛を思ったのだ。私たちは結婚詐欺はしないかもしれないが、幾度となく神を裏切り、神をだましていることか。しかし私たちを信じ、待っていてくださる。それが神の愛だ。その愛に応えて私たちは神を愛し、隣人を愛する歩みを少しでも行いたい。