「天の国」 マタイ福音書13章44-52節 大澤茂一長老 |
この題に決めてからあらためて「天の国」また関連する「神の国」「御国」と言う言葉は、聖書にどの程度出てくるのか調べてみました。その結果「天の国」について最も多く出てくるのは、マタイによる福音書に37カ所、ルカによる福音書に33カ所、マルコによる福音書に14カ所そしてヨハネよる福音書に2カ所出ていることがわかりました。圧倒的に共観福音書に偏って出てきます。これは、イエスさまは、天の国、神の国を中心に宣教したことが伺われます。イエスさまの宣教の中心は、天の国について語ることではなかったかと思われます。イエスさまは、天の国は遠くにあるのではなく身近にあることを多くの人に語りました。昔から人々は、天の国を夢に見て多くのものを創造してきました。金で埋め尽くした建物、宇治の平等院、ゴシック建築、旧約聖書に出てくるバベルの塔等々、天の国を身近なものにするために創造しました。しかしそれは実現しませんでした。
イエスさまは、天の国を3つのたとえで話しました。
第1のたとえは、農夫が畑で耕作中に、宝を見つけ、自分の持ち物をすべて売り、宝のことは隠して畑を買い、宝を自分の物にしました。当時のパレスチナは、常に戦場となることが多く、人々は、財産を地下に蓄えました。いつの日かまた戻ってきてそれを取り戻すことを願って避難し、戦火が過ぎると掘り出した。当時は、ローマの支配下であるがユダヤの律法の基に生活は営まれていました。律法では、宝を見つけた人に拾得件が認められていたためそれを知っていた農夫は自分の持ち物を全て売って宝の埋まっている畑を買いました。
第2のたとえは、宝石を商う商人が高価な美しい真珠を探し求めてやっと見つけ、やはり全ての持ち物を売って高価な美しい真珠を手に入れる話です。第1のたとえは、偶然に宝を見つけましたが、第2のたとえは長い間探し求めてやっと見つけて買い求めた話です。
第3のたとえは、漁師が網で漁をする話です。網を降ろし、囲い、多くの魚を捕る話です。いろいろなものが捕れるため魚を選別する必要があります。天国に入るためには、神様の選びがあることを示しています。このように天の国のいろいろな側面を話されました。
天の国に入るためには、どのような犠牲を払ってでも手に入れたいものであり、天の国に入ると言うことは神様の御心を受け入れて行うことであることを語っています。天の国は、遠くにあるのではなく身近なところにあることを示しています。ある時突然神の御心を確信する時、これを受け入れる為に今まで大切に思っていたもの(野心、目的)、習慣、生活態度をやめ、自分の十字架を負ってイエスに従うことがでます。
神の御心を行うことは、暗く、わびしく、悩み多いことではなく実は、十字架の彼方にどこにも見いだすことができない美しいものを見いだすことができることを知ることができるのではないでしょうか。実にすばらしいことだと思います。
イエス・キリストは、更に神様の御心を受け入れた時、今までに得た知識や賜物を捨てるのではなく新しい光の元で見直すと新しい奉仕のために用いることにより知識や賜物をより豊かに用いることができることを教えているのではないでしょうか。
従って天の国、神の国は、私たちのすぐ隣にあります。だから主の祈りは「天にまします我らの父よ、願わくは、御名をあがめさせたまえ、御国を来たらせたまえ、御心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」と祈ります。
私たちも神様の御心を受け入れて歩む者でありたい。