「聞いて悟る人」 マタイ福音書13章1-23節 |
このたとえで問われることの一つは、「聞く」ということではなく「聞いて悟る」ということ。キリスト教にも「悟り」が必要なのだ。「悟る」という言葉は、「共に遣わす」という言葉から派生して生まれた言葉のようだ。つまり、ここで言う「悟る」とは何か頭で考え理解することではなく、遣わされ、その歩みを進める中で理解を深めていくこと、といえるだろう。「聞いて悟る」とは、言い換えれば「聞いて従う」ことなのだ。悟るとは「神に委ね、神に従っていく」ことに他ならない。
先週、小林姉が天に召されたが、私は小林姉の心の底から響いてくるような「アーメン」という声が忘れられない。自らの存在を懸けたアーメンだったように今になって思わされている。「本当にその通りだ」という意味を持つ「アーメン」という言葉は、「あなたに信頼します」、「あなたにお委ねします」という信仰も明らかにするものだろう。言って見れば「アーメン」と告白することが「聞き従う」第一歩なのではないだろうか。
神の国の福音を語るイエスの周りには大勢の群衆が集って来た。しかし、すべての者が「アーメン」と言ったわけではなかった。多くの者がまたイエスのもとを立ち去った。いや、十字架を前にしては、弟子たちでさえ散り散りになり、イエスを見捨てた。「あなたたちは聞くには聞くが、決して理解せず(悟らず)、見るには見るが、決して認めない・・・」(14節以下)。
イエスは、みずからの命を懸けて語られた。種を蒔く人も、蒔かれた種も、イエス・キリストという方に他ならない。神の言葉が一人一人に語りかけられている。一歩を踏み出し、私たちの存在を主イエスにおゆだねしなさい。そう呼びかけられているのだ。「しかし、あなたがたの目は見ているから幸いだ」(16節以下)。
人の「終わり」に立ち会うということは本当に畏れ多いことである。一人一人に語りかけ、導く、神の深い愛を思わずにおれないからだ。またそこに信仰者の実りを垣間見るからだ。小林姉は「あなたは愛されている」という言葉に「アーメン」と告白し生涯を歩まれた。そしてその愛に触れて深い罪の自覚を与えられ、それを赦す神の愛に畏れをもって、応えて歩もう、神を愛して歩もうとされた方であった。
「聞いて悟る」ということは一朝一夕のことではない。信仰者の生涯を通して、たえず繰り返されることだ。「アーメン」、「アーメン」と御言葉を悟る・理解するということは、するめの旨みをじっくりと味わうように信仰生活の繰り返しの中で分かるようなことなのだ。
今、あなたはどうするのか?聞き悟るのか、それとも聞き流すのか?決断を促されているのだ。「耳のある者は聞きなさい」