「引き出されて」 マルコ福音書1章35-39節 潮田健治牧師 |
泉伝道所が開設されて8年。今年は伝道教会設立(組織自立)の年を迎えることになりました。ゼロからスタートした開拓伝道の現場に、3名の長老が与えられることになります。実に感慨深いものがあります。ところで、8年前、礼拝のための場所を探していた時、大きな街道沿い、そして駅に近いところを探しました。見つからないと分かった時、どの不動産屋にもあった1枚のチラシに気付きました。それは住宅地の中で、意に添わなかったので1ヶ月も放っておいた物件でしたが、ふと、そこに行ってみようと思いました。立ってみて、ここはいい、と思いました。この地域には2つの鉄道が乗り入れているのですが、その2つ、もしくは3つの駅に出ることができ、伝道圏が格段に広がるのです。これが現在の泉伝道所です。なぜ、最初からここにしなかったのか。私の中に、大きな街道沿い、駅に近いところ、そういう思い込みがあったからです。立つ場所を変えないでは見えてこない景色、展望があるのでした。私は、その場所に立ってみて、主に引き出されたと思いました。
弟子たちは、町の評判に、目の前のことに心が動いていた。その心の動き方や関心を突き抜け、突き破って、主はすでにご自分の場所を移して見ていたのです。何を見ておられたか。このマルコによる福音書は、その3分の1を使って、十字架と復活を描きますが、このことを見ていたのだというのが、著者の思いではなかったか。「近くの他の町や村へ行こう」と言われた主は、ついに十字架にまで出て行かれた。そういう「宣教」をなさったのだ。いや、最期に復活がある。復活によって、いのちを宣教なさった。これが主イエスの見ておられたことであるし、居場所の移し方だ、と書いたのです。それによって周りの者は見方、考え方を次々と相対化されていったのです。
主イエスの祈りにひきずられるようにして、引き出され、弟子たちは居場所を移していった。やがて世界を包むほどの宣教の業に仕えることになった。やがて、ここにいるシモンはローマにまで行ったと伝えられていますが、そこで殉教の死を遂げたとも伝えられていますが、妻と共にこう言ったかも知れない。「あの時、近くの他の町や村へ行こうと言われた主にお従いして、気付いたら、その町や村は、ここまで広がったのだ」。ローマは、世界の中心でした。ガリラヤの田舎から次々居場所を移して、遂に世界の中心まで移したと言えます。私たちの閉じる思いが、主イエスの祈りによって広げられ、その宣教にお仕えできたらと願います。