「神の言葉はつながれず」 使徒言行録28章17-31節 |
福音を告げられた時に、受け入れる者と拒絶する者たちがいたというモチーフはこれまで使徒言行録に何度も出てきた。神様の御心に従っているのだから、何の反対もなく事が進めば良いのにと私たちは思うかもしれない。しかし、神の御心に従う者は、いつも多くの反対を受けるのである。自分の歩むべき道を持たず、大勢の人々の言うことになびいているならば、絶えず多数派に属し、それほど大きな反対は受けない。しかし、「これが神の御旨である」と信じて歩むと、必ずといってよいほどそこには反対が起こる。なぜなら、神の御心は時として人の考えとかけ離れているからである。旧約の預言者に然り、神の御心を余すところなく、この世に証しした主イエスの歩みは、人々の手によって十字架におしられる歩みだったではないか!
これは反対があれば自分が常に正しいということを意味するのではなく、神の御心に謙虚に従う者は、その中で受ける反対を恐れてはならないということである。常に神のみ旨に従う者は、命の危機にさえさらされるような中で「恐れるな!」との御声を聞き続けてきたのだ。そういうのっぴきならない戦いが神に従う者には求められるということだ。
ナチス・ドイツのもとで、教会も「ドイツ的キリスト者」という運動にのみこまれつつあるとき、それに抵抗する告白教会の指導者であったマルティン・ニーメラーは、ダッハウ強制収容所に収容されている時に、「されど神の言葉は繋がれたるにあらず」という説教をした。「この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません」というⅡテモテ2章9節のからの説教である。
むしろ神の言葉に忠実に生きることによって、この世では反対にあうかもしれない。私たちは鎖につながれるような不自由さを味わうかもしれない。しかし、まさにその時に神の言葉は自由にあるということ。神の言葉に従うことにこそ自由がある。そのことに私たちの目が開かれていること、神の言葉へ信頼を寄せていることこそが、私たちにとっての本当の自由であるということを忘れてはならない。
使徒言行録は、最後にパウロが「まったく自由に何のさまたげもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」と記し突然終わる。その後パウロがローマでどうなかったのかということは一切書かれていない。なぜか? それは使徒言行録が「終りのない物語」だからである。それは「神の言葉の自由」という出来事が私たちを通して「今ここで」起こるということに他ならない。今私たちは使徒言行録の続き、使徒言行録の最先端を生きているのである!