「すべての人に」使徒言行録26章19-32節 |
最近、本屋に行くとかなりのスペースで「生き方」に関する本が並んでいるのを目にする。「成功するための条件」と言った言葉がそこここに躍っている。成功するためには「自立」すること! 自立は自律! 仕事術、金融投資、金銭管理、健康管理、精神管理などの大切さが謳われている。その一つ一つは大切なことであるし、自立も自律も大切であり、必要なことである。しかし、自立や自己管理が強調される先には往々にして自己責任論が待ち構えているのだ。何か物事がうまくいかなかったり、苦境に陥った時に、「それはあなたの責任だ」と切って返されてしまうのだ。
パウロが生きていた社会やパウロのファリサイ派としての歩みは、自己管理と自己責任ということと響き合うのではないか。パウロは律法を守ることにおいて、自分を律し、徹底的に生きてきた。エリートとして成功を収め、それを誇ることさえ出来た。しかし、律法主義はそうできない人々は「自己責任」として切り捨て、「しょうがい」を負う人にさえ、「律法に従わなかった結果だ」と自己責任を押し付けたのではないか。しかし、そのただ中で、主イエスに見出され、そして彼の歩みは全く変えられた。その歩みにならってほしい! と語ったのである。
主イエスの十字架と復活が私たちに指し示すのは、神はどこまでも私たちにかかわられる姿勢を明らかにされたということだ。自己責任を突き詰めるなら、私たちは、神の裁きを受けても文句を言えないような者たちだ。しかし、主イエスが語られた放蕩息子の物語が指し示すように、神は自己責任で私たちを裁かれない。むしろ、愛をもって「立ち帰る」ことを神ご自身が忍耐をもって待っておられるのだ。パウロはその神に立ち帰るようにとそして、その悔い改めにふさわしく新しい歩みをせよと説いているのだ。
「悔い改めにふさわしい行い」はルカ3章にしるされる洗礼者ヨハネと民衆との遣り取りを思い起こさせる。そこには悔い改めの具体的なすすめが、人が生きるのに根本的に必要な事柄にかかわることが語られている。人をだまして、踏みつけて、搾取して不当に利益を上げるなということだ。それは大企業の業績不振が連日報じられ、多くの人が仕事を失うかもしれない今日に直接的に語られる言葉ではないだろうか。
本田哲郎神父は「悔い改め」(メタノイア)を「低みに立って見直す」と翻訳する。そこから新しい歩みを始めることが「悔い改めにふさわしい行い」である。「悔い改め」は今、すべての人に呼びかけられていることである。