「収穫は多いが」 マタイ福音書9章35節-10章8節 |
先日、日本聾話学校のチャリティー映画会に出かけた。上映に先立って、乳幼児クラスと幼稚部の学校生活を記録した映像が紹介された。乳幼児クラスの映像には子どもたちと一緒に遊ぶ母親たちの姿が映っていた。それを見て思わず目頭が熱くなった。1年前に日本聾話学校を見学した時に聞いた話を思い出したからだ。
乳幼児クラスの先生によると、ほとんどの母親が、我が子が耳に問題を抱えていることを知った時、これからどうやって子どもに接していけばよいのか、子どもの将来のことに不安を覚え、途方にくれるという。そして自分の何が悪かったのかと悩むのだそうだ。
主イエスは弱りはて、打ちひしがれている群衆をみて「深く憐れまれた」と聖書に書かれている。それは単に「同情する」というレベルではない。はらわたが痛む、「断腸の思い」といった方がよい。「子猿を失い、母猿はあまりの悲しさに腸が切れて死んだ」というのが「断腸の思い」だ。言いようもない悲しみと怒りがごちゃまぜになったような思いを主イエスは弱り果て、打ちひしがれた群衆を見た時に抱かれたのだ。
そして主イエスは驚くことに、そのような群衆を目の前にして、これまでご自分がなしてこられたことを弟子たちに委ねられるのだ。「収穫は多いが、働き手は少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」。あなたがた一人一人が主イエスのような目を持ち、手を持ち、足を持つ働き手になりなさいということだろう。そして10章からは12人が招かれて、遣わされて行くのである。
この12人は特別な12人ということではない。教会をあらわしているのだ。そして、教会の最優先課題は、目の前にいる失われた羊のためにあるのだ。神の深い憐れみを知らず、神に見捨てられているように思っている人間に、自分が語りかけられ、愛され、神の国へと招かれている事を知らせるようにと教会はその務めを与えられているのだ。絶望は絶望で終わらないということを宣べ伝えよ、と命じられているのだ。
のぞみ教会でも「新しい働き」から、地域の中で教会がどのようにお仕え出来るかを真剣に祈り求めている。母親たちの苦悩、子どもたちの問題、孤独を抱える高齢者の方々など多くの課題がこの地にもある。途方にくれている人々がいる。弱り果てている人がいるのだ。
弟子たちは大変大きな課題に直面させられた(8節)。それは決して弟子たちの力で解決できる問題ではない。だからこそ「収穫の主」に信頼した祈りと、その主に委ねる献身が求められるのである。「ただで受けたのだから、ただで与えなさい」。
聾話学校の母親たちは、学校の教師たちの祈りと触れ合いによって少しずつ笑顔を取り戻すそうだ。そして子どもたちが学校で覚えた祈りや聖書の言葉にとらえられる母親もいると聞いた。打ちひしがれた者をとらえてくださる主に祈りつつ歩む者でありたい。