「人の知らぬ間に」 使徒言行録25章1-12節 |
新しく総督に着任したフェストゥスはユダヤの指導者層と早速接触をする。するとユダヤの指導者たちが今もパウロを殺害したいと強く願っていることが露呈される。ユダヤ人たちが希望するエルサレムでの裁判にはならなかったが、カイサリアでパウロの裁判が始まり、その結果パウロは皇帝に上訴するという。フェストゥスは、陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」というところで今日の場面が終わる。
この「皇帝のもとに出頭する」ということが、ローマへ行くということを意味するわけだ。2年間、不当に監禁されてきたパウロであったが、今ここにローマへ通じる道が開かれたのだ。それこそ、この冬の季節に土の中で春を待ちながら、変化している種のような出来事があるということをルカはそのことをここで語っているのだ。
囚人としてローマに行くことになるとは。このような形でローマ行きが実現しようとするとは。このことはパウロの想像をはるかに超えた形だっただろう。今日の箇所は、神の計画が私たちのはかり知らぬところで進みゆき、私たちの歴史を貫き、神の約束と計画がなることを私たちに示しているし、それは使徒言行録を貫き、いや旧新約聖書を貫いている使信である。
午後に私たちの信仰告白についての学びをするが、信仰告白の解説書である『恵みの契約』を著したマロウ先生は、「歴史の中での神との出会い」という項目の中で、歴史の出来事を通してなされる神の啓示を理解する時に大切なのは、「同一の歴史的出来事において、人は自由な決断を行い、同時に神も自らの目的を遂行するように働く」という考えだと記している。教会学校で読み進めている出エジプト記の物語にしても、今日のパウロの物語にしても然りである。だからこそキリスト者はその時々の主体的な決断をする時に、主の御心を求めるのである。
この世の原理は違う。それは2人の権力者たちが「ユダヤ人に気に入られようとして」という行動原則に現わされている。突き詰めれば自己保身だ。今の指導者にも通じるところではないか。ここを原典で読むと「カリス」という言葉が使われている。パウロが「恵み」という時に使う言葉だ。ユダヤ人に気に入られ(カリス)ようとしてすることは最終的にはならなかった。その出来事の中で進んでいたのは、パウロがローマへ行くことになるという「神の恵み(カリス)」であったのだ。だからこそ私たちの激動するこの時の中で、私たちが人の心ではなく、神の御心を求めることことが、御心に生きることが求められる。