2008年 12月 21日
「キリストを宿す」 ルカ福音書1章26-38節 クリスマス礼拝 |
いわゆる「受胎告知」と呼ばれる場面である。天使ガブリエルは神にマリアのもとに遣わされ、「おめでとう(Rejoice)、恵まれた方。主があなたと共におられる」とあいさつをした。しかし、言うまでもなく、婚約者ヨセフの知らないところで妊娠するということは「喜びの知らせ」というものではなく、悲劇的な告知であり、理解しがたい知らせであった。
マリアはガブリエルのあいさつを受け「戸惑い」、「考え込んだ」。そして「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えた。これは人間の当たり前の反応であり、非常に常識的な答えである。しかし、同時にこの答えは、神の御告げを否定する答えであり、神の御心よりも自分の論理、自分の常識、自分の経験が最優先された態度でもある。
ところがガブリエルがマリアに向かって、神の選びを告げ、「神の子」を産むと告げとマリアは、今度は「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と答えたと聖書は伝えている。道理は通らない。理解もできない。表面的な出来事を見れば、不条理な妊娠であり、誰もが納得し、喜んでくれる懐妊でもない。しかし、マリアは「お言葉通り、この身になりますように」と自らの運命を引き受けていったのだ。マリアは自分の論理、理解を前面に出すところから、人間的な常識を捨てて、神の選びに自らを委ねた。そこから始まる神の物語があるのだ。
牧師館の玄関前にオレンジがたわわになっている。よく見ると豊かな実をつけている枝は、みな刈り込まれたところから生え出てきた新しい枝である。古い枝には実がついていない。私たちも自分たちの経験、常識という枝を剪定しなければ神の計画(神の実り)は受け止められないのではないか。そんなことを示されたように思った。「わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:9)と言われる神の御心を受け止めるには、人間的な思いや生き方を一度切り落とす必要があるのだ。マリアはマリアでありつつ、しかし「お言葉通りに!」と未知の世界へと踏み出していったのだ。
14-5歳だったと言われるマリアの「お言葉通りに、この身になりますように」という言葉は英訳では“Let it be to me according to your word”(NKJ)。これを見てビートルズのナンバー“Let it be”を思い出した。「私が苦しみの中にいる時/聖母マリアがきて/知恵の言葉を授けてくれる/Let it be 」。曲の和訳を検索すると“Let it be”を「そのままに」とか「なすがままに」と訳されているのが多かった。なかには「ほっておけ」と訳されているのも・・・・・・。しかし、歌詞にマリアが登場することからも“Let it be”には「お言葉通りに、この身になりますように」というあのマリアの告白が下敷きになっているのだ。意訳を許されるなら、「御心のままに」というのがピンとくる。ポールは、悲嘆にくれても、離れ離れになった人々にも、「答えはあるさ、Let it be」と続けた。「御心のままに」。それはまさに上からの知恵の言葉である。
これから洗礼式が行われるが、洗礼を受けるということは、「どうしてそのようことがありましょうか」というところから「御心のままに」と生き始める出来事である。もっといえばマリアと同じように、私たちがキリストをその身に宿すことに他ならない。
マリアはガブリエルのあいさつを受け「戸惑い」、「考え込んだ」。そして「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と答えた。これは人間の当たり前の反応であり、非常に常識的な答えである。しかし、同時にこの答えは、神の御告げを否定する答えであり、神の御心よりも自分の論理、自分の常識、自分の経験が最優先された態度でもある。
ところがガブリエルがマリアに向かって、神の選びを告げ、「神の子」を産むと告げとマリアは、今度は「わたしは主のはしためです。お言葉通り、この身になりますように」と答えたと聖書は伝えている。道理は通らない。理解もできない。表面的な出来事を見れば、不条理な妊娠であり、誰もが納得し、喜んでくれる懐妊でもない。しかし、マリアは「お言葉通り、この身になりますように」と自らの運命を引き受けていったのだ。マリアは自分の論理、理解を前面に出すところから、人間的な常識を捨てて、神の選びに自らを委ねた。そこから始まる神の物語があるのだ。
牧師館の玄関前にオレンジがたわわになっている。よく見ると豊かな実をつけている枝は、みな刈り込まれたところから生え出てきた新しい枝である。古い枝には実がついていない。私たちも自分たちの経験、常識という枝を剪定しなければ神の計画(神の実り)は受け止められないのではないか。そんなことを示されたように思った。「わたしの思いは、あなたたちの思いを、高く超えている」(イザヤ55:9)と言われる神の御心を受け止めるには、人間的な思いや生き方を一度切り落とす必要があるのだ。マリアはマリアでありつつ、しかし「お言葉通りに!」と未知の世界へと踏み出していったのだ。
14-5歳だったと言われるマリアの「お言葉通りに、この身になりますように」という言葉は英訳では“Let it be to me according to your word”(NKJ)。これを見てビートルズのナンバー“Let it be”を思い出した。「私が苦しみの中にいる時/聖母マリアがきて/知恵の言葉を授けてくれる/Let it be 」。曲の和訳を検索すると“Let it be”を「そのままに」とか「なすがままに」と訳されているのが多かった。なかには「ほっておけ」と訳されているのも・・・・・・。しかし、歌詞にマリアが登場することからも“Let it be”には「お言葉通りに、この身になりますように」というあのマリアの告白が下敷きになっているのだ。意訳を許されるなら、「御心のままに」というのがピンとくる。ポールは、悲嘆にくれても、離れ離れになった人々にも、「答えはあるさ、Let it be」と続けた。「御心のままに」。それはまさに上からの知恵の言葉である。
これから洗礼式が行われるが、洗礼を受けるということは、「どうしてそのようことがありましょうか」というところから「御心のままに」と生き始める出来事である。もっといえばマリアと同じように、私たちがキリストをその身に宿すことに他ならない。
by nozomichurch | 2008-12-21 22:47 | ルカ福音書

