「立ち上がりなさい」 使徒言行録21章37節-22章16節 |
パウロがキリスト者を迫害するためにダマスコに向かう途中に復活の主に出会い、目が見えなくなったということはよく知られている。しかし、改めて考えるとなぜパウロは目が見えなくされたのだろうか。先週、CSのメッセージに出てきた洗礼者ヨハネの父ザカリアは、妻エリサベトに子どもが宿るとの御告げを信じることができず、口が利けなくなった。その流れで考えるとパウロの目が見えなくされたということは、パウロが「見えていた」ことが問題だったのではないか。
パウロは、千人隊長に願い出て、弁明の機会を与えてもらった。そこでパウロは如何に熱心に神に仕え、自分がユダヤ人として正統派に属していたかを語った。律法を熱心に学び、何が「正しいこと」であるかをパウロは迷うことなく確信していたことだろう。キリスト者を迫害し、殺すほど自らの正しさに自信があったわけだ。しかし、突然、天からの強い光に照らされ、パウロは目が見えなくなった。それはイエス・キリストとの出会いによって、見えていたことが見えなくされ、分かっていたことが分からなくなった経験なのである。パウロは「主よ、どうしたらよいでしょうか」(10節)と主に問わざるを得なかったのだ。
パウロの切実な問いかけのこの言葉は信仰者にとっても大切であるし、いま主を求めている人にとっても大切な言葉であり姿勢である。パウロのこの言葉はそれこそ主の言葉を聞く姿勢が整っていることを表している。自分でやってきたことを一度中断させて、主の言葉を聞こうという態度が整っているのだ。
パウロの経験、回心の出来事は、それこそ今の私たち、現代社会そのもの、その社会に生きる私たちに問いかけられていることではないか。今の私たちに求められていることは、何も見えないような状況の中で「どうしたらよいのでしょうか」と主に問うことなのではないだろうか。それこそ、私たちが主に立ちかえる一歩なのではないか。私たちは主に立ちかえるよりも、自分たちの計略を練って歩もうとする。しかし、もっとも大切なことは、主のもとに立ち返ることだ。
プロ野球の楽天の野村監督がその著書の中で「人間再生の極意とは、一つの言葉と本人の気づきである。それだけで人は変わる」と記しているのを最近読んで共感を覚えた。パウロはそれこそ、真の言葉である主イエスと出会い、そして気づいた。
不思議に思うのは、パウロには同行者が他にもいたのに、パウロだけが、言葉を聞いたのだ。そしてそこから「立ち上がりなさい」と新しい召しをパウロを受けたのだ。私たちもまた主から言葉をかけられ、新しい歩みへと促されている者だ。悔い改めるということは、新しい召しに生き始めることである。神様の御心に従って歩み始めることこそが私たちの悔い改めなのである。