2012年 01月 29日
「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」イザヤ40:8
この聖句が2012年の教会の主題聖句です。この聖句は世界史の教科書にも載っている「バビロン捕囚」からイスラエルの民が解放されつつある時に名前も伝えられていない(私たちはしばしば「第二イザヤ」と呼びます)預言者によって記されたものです。
都エルサレムはバビロン軍によって破壊され、捕囚の地で半世紀にも渡って生活することを余儀なくされたイスラエルの生活は、経済的な生活などは比較的守られていたとも言われます。しかし「バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた」(詩編137:1)とエルサレムを想いながら詩人は歌っています。しかも想いをはせるエルサレムは荒れ果てている。彼らの中心にあった「神殿」も今や崩れ落ちていた。イスラエルの人々は望郷の想いを抱えながら、「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」(イザヤ49:14)という失意の中が多くに人々の心にあったのです。
このような状況の中で預言者は「呼びかけよ」という声を聞くのです。しかし、預言者は「何と呼びかけたらよいのか」と戸惑います。人々は絶望している。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ」(6節)。人のはかなさ、この地の不確かさ、どのような華やかさもしぼんでいく。イスラエルの人々は、いや「声」を聞いた預言者自身が、バビロン捕囚を経験する中で「草は枯れ、花はしぼむ」という現実の中に座る一人の人間だったのです。だから、「何と呼びかけたらよいのか」と戸惑った。しかし、この預言者のためらい、戸惑いを突き抜けるように「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」との声が預言者に飛び込んできたのです。
私たちが今年、この御言葉を教会の主題として掲げたのはやはり3月11日の出来事を経験したことがその理由として大きくあります。3月11日以降、礼拝の中の「照明を求める祈り」でもこの聖句がよく引用され祈りがささげられました。私たちも津波や原発の事故などを通して「草は枯れ、花はしぼむ」という現実をまざまざと突きつけられたのでした。その中で最後に残るものはいったい何であるのか? 先週CSの説教でルカ福音書10章に記されるマルタとマリアの物語が読まれた。「しかし、無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(口語訳)。とこしえに立つ神の言葉に耳を傾けることが「草は枯れ、花はしぼむ」中で「ただ一つ必要なこと」なのです。
バビロン捕囚という「闇の深淵」、「混沌」を経験する中で、イスラエルの民は天地創造の物語を編纂しました。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1:3)。神の言葉は必ず出来事となる。神の言葉は「むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:11)。イスラエルの民は、目に見える神殿が失われ、捕囚を経験する中で「神の言葉に生きる」ことへ引き戻されたのです。
私たちの世界はまさに「混沌」としている。しかし、この中で私たちは「とこしえに立つ神の言葉」に聞き従い生きることができるのです。何という恵み、何という希望でしょう。「神の言葉」が飛び込んできます。私たちは生きることができるのです。
この聖句が2012年の教会の主題聖句です。この聖句は世界史の教科書にも載っている「バビロン捕囚」からイスラエルの民が解放されつつある時に名前も伝えられていない(私たちはしばしば「第二イザヤ」と呼びます)預言者によって記されたものです。
都エルサレムはバビロン軍によって破壊され、捕囚の地で半世紀にも渡って生活することを余儀なくされたイスラエルの生活は、経済的な生活などは比較的守られていたとも言われます。しかし「バビロンの流れのほとりに座り/シオンを思って、わたしたちは泣いた」(詩編137:1)とエルサレムを想いながら詩人は歌っています。しかも想いをはせるエルサレムは荒れ果てている。彼らの中心にあった「神殿」も今や崩れ落ちていた。イスラエルの人々は望郷の想いを抱えながら、「主はわたしを見捨てられた。わたしの主はわたしを忘れられた」(イザヤ49:14)という失意の中が多くに人々の心にあったのです。
このような状況の中で預言者は「呼びかけよ」という声を聞くのです。しかし、預言者は「何と呼びかけたらよいのか」と戸惑います。人々は絶望している。「肉なる者は皆、草に等しい。永らえても、すべては野の花のようなもの。草は枯れ、花はしぼむ」(6節)。人のはかなさ、この地の不確かさ、どのような華やかさもしぼんでいく。イスラエルの人々は、いや「声」を聞いた預言者自身が、バビロン捕囚を経験する中で「草は枯れ、花はしぼむ」という現実の中に座る一人の人間だったのです。だから、「何と呼びかけたらよいのか」と戸惑った。しかし、この預言者のためらい、戸惑いを突き抜けるように「草は枯れ、花はしぼむが/わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」との声が預言者に飛び込んできたのです。
私たちが今年、この御言葉を教会の主題として掲げたのはやはり3月11日の出来事を経験したことがその理由として大きくあります。3月11日以降、礼拝の中の「照明を求める祈り」でもこの聖句がよく引用され祈りがささげられました。私たちも津波や原発の事故などを通して「草は枯れ、花はしぼむ」という現実をまざまざと突きつけられたのでした。その中で最後に残るものはいったい何であるのか? 先週CSの説教でルカ福音書10章に記されるマルタとマリアの物語が読まれた。「しかし、無くてはならぬものは多くはない。いや、一つだけである」(口語訳)。とこしえに立つ神の言葉に耳を傾けることが「草は枯れ、花はしぼむ」中で「ただ一つ必要なこと」なのです。
バビロン捕囚という「闇の深淵」、「混沌」を経験する中で、イスラエルの民は天地創造の物語を編纂しました。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった」(創世記1:3)。神の言葉は必ず出来事となる。神の言葉は「むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす」(イザヤ55:11)。イスラエルの民は、目に見える神殿が失われ、捕囚を経験する中で「神の言葉に生きる」ことへ引き戻されたのです。
私たちの世界はまさに「混沌」としている。しかし、この中で私たちは「とこしえに立つ神の言葉」に聞き従い生きることができるのです。何という恵み、何という希望でしょう。「神の言葉」が飛び込んできます。私たちは生きることができるのです。

