170730_「あなたという器を神は」_ローマ9:19-28 荒瀬牧彦牧師 |
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2017年 07月 30日
神の自由な選びをパウロは説く。それに対する猛烈な反論がくるのを見越して、パウロは言う。「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か」。 さて、神に口答えする。それは絶対してはいけないことなのだろうか。神に物申す人、食い下がる人の姿は聖書にみられる。アブラハムは、ソドムとゴモラを滅ぼすと神が言われた時、「正しい人を悪い人と一緒に滅ぼしてしまうのですか。そんなひどいことをあなたがなさるべきではない」と食ってかかった。ヨブも、不条理な苦しみに対して納得せず、友人たちに「おまえは傲慢だ」と責められながらも、「神様が直接答えてくれるまで、わたしはひきさがらない」と粘った。 新約においても、娘を助けてほしいと主イエスに願ったシリア・フェニキアの女は、「まず、こどもたちに十分食べさせなければいけない」としりぞけられた時に、「小犬だって、テーブルから落ちたパン屑はいただきます」と言い返して、言い負かしさえしたではないか。そして重要なのは、それらの反論や抗議や嘆願を、聖書は肯定的に見ているということ。そう、神には何でも訴えてよいのだ。文句を言ってもいい。しかし、口答えしてはならないことがある。それは神の愛の広さに対してである。神が御自分の自由のうちに、恵みの選びをなさることについてである。神はそれを譲ることができない。 パウロは陶器師のたとえを用いる。陶器師がうつわをつくる。同じ土を使っても、あるものを高貴な目的の器に、あるものはもっと日常的な目的の器に。陶器師には自分の考えで、それぞれの器をデザインする自由があるのだ。しかも、神は「怒りの器として滅びることになっていた者たちを寛大な心で耐え忍び」、怒りの器であったものを憐れみの器として用い、それによって、元々憐れみの器として準備されていた民(イスラエル)にみこころを示そうとされたのである。 器はそれに盛ったり活けたりするものによって、その表情や輝きがすっかり変わる。神は、人間という器にそれをしてくださる。怒りの器が、神の愛を盛る器として輝く。その愛の広さ、忍耐の深さに対して口答えするとは何者か。あなたは、神の愛が広すぎる、それでは私の自尊心がどうなるかと、口答えしてはならない。 イスラエルという前々から選ばれていた器が、傲慢になり、救い主を受けなかった。すると、神は異邦人に恵みを注ぎ、怒りの器を憐れみの器とされた。今度は異邦人が用いられて、やがてイスラエルも立ち帰り、共に、神の憐れみの器となる。 クリスチャンよ、威張るな!あなたも私も土の器にすぎない。しかし、神がこの器を憐れみの器としてくださったのだ。そしてその神は、他の器も自由に選んで、神の愛を注いでくださる。あなたはその神の愛の断固たる広さに、口答えしてはならない。 #
by nozomichurch
| 2017-07-30 10:30
| ローマ
2017年 07月 23日
富士山の麓にある富士峰山チャペルの草刈りに向かう途中、かつて日本中会の多くの教会が夏のキャンプなどで利用していたFCC(富士ケ嶺クリスチャンセンター)に立ち寄った。私は、中学校の三年生の夏、FCCで洗礼を受けることを決意し、その年のクリスマスに洗礼を受けた。14歳であった。 洗礼を受ける直前の秋に、母親の財布からお金を盗んだことがばれた。洗礼承諾書の判子を親にもらう必要があったが、「お金を盗む者が、何が洗礼だ」と母に言われたこともあり、正直に頼むことは出来なかった。字のきれいな友人に親の名前を書かせ、夜中に起き出して判子を勝手に押して教会に提出した。問題ありの洗礼であった。 しかし、その洗礼が私の人生にとって決定的な出来事なのだ。高校三年生の夏、高校野球を終えた時、「洗礼を受けているのだから教会にいかなければ」と真っ先に思った。あの時に洗礼を受けていなかったら、私の人生は違ったかもしれない。信仰的にも不十分であり、問題のあった洗礼かもしれないが、私の洗礼はただただ神様の恵みによるものだと今は強く思う。 洗礼への導かれ方はそれぞれに違う。一人一人の固有の物語がある。洗礼を受けた教会も、その方法も違いがある。しかし、同じ「洗礼の恵み」に与っているのだ。主イエスが洗礼者ヨハネから受けられた時のことをマタイは「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのをご覧になった。そのとき『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」。(16−17節)。主イエスが洗礼を受けられたことによって神と一つされたように、私たちも洗礼によってキリストとつなげられることで、洗礼を受ける時に主イエスが経験されたできごとを同じように経験するのだ。私たち一人一人は洗礼を受ける時に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神から宣言される。「わたしの心に適う者」とは直訳すると「わたしは彼を喜ぶ」。神がわたしを喜びとしてくださる! 私たちが洗礼を受けた時、その宣言が天からなされたのだ。これが私たちにとって究極のIDであり、永遠に変わることのない身分なのである。 「信じていれば洗礼は受けなくてもよい」という人がいる。私も中学生の時にそう思った。しかし、私たちの信仰がいかにもろいものか。ちょっとしたことで信仰は揺らぎ、神への信仰も怪しくなる。しかし、洗礼によって私たちに刻み込まれた神の宣言は、たとえ私たちが「神を信じない」と言ったとしても、取り消されることはない。私たちが神を離れたとしても、神が私たちを離れることは決してない。それが洗礼によって与えられる恵みである。時に、私たちは神の子らしく生きることの出来ない自分が嫌になることがあるかもしれない。しかし、あなたが神の子であり、神の喜ばれる存在であることに変わりはない。それが洗礼の恵みである。 洗礼は、また私たちを神の民としてこの世に遣わす按手でもある。私たちは、神の子として生きる喜びを告げ知らせるように、キリストを宣べ伝えるために、洗礼の恵みを分かち合うために選び出されたのである。洗礼は、使命を授かることでもある。一人一人の洗礼の恵みを覚えつつ、その恵みを伝えていきたい。 #
by nozomichurch
| 2017-07-23 10:30
| マタイ福音書
2017年 07月 23日
富士山の麓にある富士峰山チャペルの草刈りに向かう途中、かつて日本中会の多くの教会が夏のキャンプなどで利用していたFCC(富士ケ嶺クリスチャンセンター)に立ち寄った。私は、中学校の三年生の夏、FCCで洗礼を受けることを決意し、その年のクリスマスに洗礼を受けた。14歳であった。 洗礼を受ける直前の秋に、母親の財布からお金を盗んだことがばれた。洗礼承諾書の判子を親にもらう必要があったが、「お金を盗む者が、何が洗礼だ」と母に言われたこともあり、正直に頼むことは出来なかった。字のきれいな友人に親の名前を書かせ、夜中に起き出して判子を勝手に押して教会に提出した。問題ありの洗礼であった。 しかし、その洗礼が私の人生にとって決定的な出来事なのだ。高校三年生の夏、高校野球を終えた時、「洗礼を受けているのだから教会にいかなければ」と真っ先に思った。あの時に洗礼を受けていなかったら、私の人生は違ったかもしれない。信仰的にも不十分であり、問題のあった洗礼かもしれないが、私の洗礼はただただ神様の恵みによるものだと今は強く思う。 洗礼への導かれ方はそれぞれに違う。一人一人の固有の物語がある。洗礼を受けた教会も、その方法も違いがある。しかし、同じ「洗礼の恵み」に与っているのだ。主イエスが洗礼者ヨハネから受けられた時のことをマタイは「そのとき、天がイエスに向かって開いた。イエスは、神の霊が鳩のように御自分の上に降ってくるのをご覧になった。そのとき『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』と言う声が、天から聞こえた」。(16−17節)。主イエスが洗礼を受けられたことによって神と一つされたように、私たちも洗礼によってキリストとつなげられることで、洗礼を受ける時に主イエスが経験されたできごとを同じように経験するのだ。私たち一人一人は洗礼を受ける時に「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と神から宣言される。「わたしの心に適う者」とは直訳すると「わたしは彼を喜ぶ」。神がわたしを喜びとしてくださる! 私たちが洗礼を受けた時、その宣言が天からなされたのだ。これが私たちにとって究極のIDであり、永遠に変わることのない身分なのである。 「信じていれば洗礼は受けなくてもよい」という人がいる。私も中学生の時にそう思った。しかし、私たちの信仰がいかにもろいものか。ちょっとしたことで信仰は揺らぎ、神への信仰も怪しくなる。しかし、洗礼によって私たちに刻み込まれた神の宣言は、たとえ私たちが「神を信じない」と言ったとしても、取り消されることはない。私たちが神を離れたとしても、神が私たちを離れることは決してない。それが洗礼によって与えられる恵みである。時に、私たちは神の子らしく生きることの出来ない自分が嫌になることがあるかもしれない。しかし、あなたが神の子であり、神の喜ばれる存在であることに変わりはない。それが洗礼の恵みである。 洗礼は、また私たちを神の民としてこの世に遣わす按手でもある。私たちは、神の子として生きる喜びを告げ知らせるように、キリストを宣べ伝えるために、洗礼の恵みを分かち合うために選び出されたのである。洗礼は、使命を授かることでもある。一人一人の洗礼の恵みを覚えつつ、その恵みを伝えていきたい。 #
by nozomichurch
| 2017-07-23 10:30
| マタイ福音書
2017年 07月 16日
イエス様は「思い悩むな」と繰り返し命じられている。しかし、私たちは思い悩んでしまう。悩みの中で「思い悩むな」という言葉を聞くと心をえぐられるように感じたり、「信仰の薄い者たちよ」(30節)との言葉に落ち込んでしまうこともある。主イエスは、思い悩む者たちにさらなる重荷を背負わせるためにこの言葉を語られているのか。決してそうではない。 「思い悩み」とは、「実存に関わる重大な事柄が心を虜にする」とギリシャ語の辞書にあった。心配、懸念、悩みに心が虜になっている状態が「思い悩み」ということだ。私たちは不安に取りつかれるとその不安しか見ることができなくなる。それが全てかのように思えてしまう。しかし、主イエスはそのよう不安や恐れに支配されてしまう私たちに「空の鳥をよく見なさい」、また「野の花がどのように育つのか、注意して見なさい」と続けて命じられている。ただ見るのではない。「よく見る」「注意して見よ」と主イエスは言われる。そこに神様の養いが見えてくるだろう! 「空の鳥」はルカ福音書では烏となっている。烏は忌み嫌われた鳥であった。その烏も神様の養いの中にある。「あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか」。また神様は、明日は炉に投げ込まれる道端の野の草をソロモン以上に装って下さる。「まして、あなたがたにはなおさらのことではないか」。 山上の説教を聞いていた聴衆たちは「いろいろな病気や苦しみに悩む者」(5:24)たちであった。イエス様は彼ら/彼女らが「苦労」を抱えながら、一所懸命に生きていることをご存じであった。そんな彼らを神様が見捨てるはずがない。天の父が、鳥を養われるならば、ましてそれよりも大切なあなたがたを養われないはずがないでしょ? とイエス様は語りかけられたのだ。 「思い悩むな」と命じられているのが主イエスであることを私たちは忘れてはならない。主イエスは誰よりも生きる悩みを知っておられる方だ。貧しい大工の家で育ち、「貧しき憂い、生きる悩みつぶさになめし」お方だ(讃美歌21 280番)。そして最後は十字架におかかりなったお方だ。「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と叫ばれたお方だ。 「シオンは言う。主はわたしを見捨てられた/わたしの主はわたしを忘れられた、と。……たとえ、女たちが忘れようとも/わたしがあなたを忘れることは決してない。見よ、わたしはあなたを/わたの手のひらに刻みつける」(イザヤ49:14-16)。主イエスが釘で手のひらを打ち抜かれたは、わたしたちを決して忘れないという神の愛のしるしである。すべての悩みを知っておられる方が、わたしたちと共にいる。だから、「思い悩むな!」。これは「神があなたと共にいる」という約束に裏付けられたよき知らせの言葉に他ならないのである。だから、だいじょうぶ。 #
by nozomichurch
| 2017-07-16 10:30
| マタイ福音書
2017年 07月 02日
「主は羊飼い、わたしには何も欠けることがない」と始まる詩編23編は最も有名な詩編でしょう。大変愛され、馴染み深い詩編ですが、読めば読むほど改めて驚くべき詩編だと思わされます。この詩編には驚くべき明るさ、力強さ、自由、そして主体性があります。「当たり前」ではないことが告白されています。 「死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない」(4節)。これは本当に驚くべきことです。わたしは牧師として「死の陰の谷」に直面する方々と時を共にすることがあります。明日への不安、死への恐れを吐露されます。それは私たちの偽らざる「死の陰の谷を行くとき」の現実です。しかし、にもかかわらず、この詩人は驚くべきことに「恐れることはない」と告白するのです。そして、私たちの恐れ、死の闇の中に一つ筋の光が差し込むように、「あなたがわたしと共にいてくださる」と言うのです。 私たちの羊飼いは、「死の陰の谷」から羊を回避させてはくれません。「死の陰の谷」を私たちは避けることはできません。ここにこの詩の一つのリアリティがあります。しかし、私たちの羊飼いは、「死の陰の谷」に共に立って下さる方なのです。この羊飼いこそあの十字架で「死の陰の谷」に立たれた主イエスです。そして復活の命によって、死を滅ぼして下さった主イエスです(ヘブライ2:15)。私たちは「死の陰の谷」を避けて通ることはできません。しかし、その谷を一人で通るのではなく、主イエスと共に、主の御言葉と共に歩むのです。 キリスト抜きにこのようなことを言えば、根拠のない気休めに過ぎません。しかし、私たちは主イエスの十字架の向こうから、復活の光が差し込んでいるのを知らされている者たちです。私たちは、十字架を仰ぎ見る時、死によって私たちの人生が終わるのではないことを知るのです。「死の影の谷」は確かにあります。この地上には、死の陰が漂っています。この瞬間にも死を迎える人はいます。しかし、なお私たちのこの地に驚くべき光が差し込んでいるのです。キリストの復活を知らずに、この地上をみるならば、それは死をもって終わる世界です。しかし、復活の主イエスを知れば、「たとえ死の陰の谷を行くときも/わたしは災いを恐れない」と告白し、驚くべき明るさ、力強さ、主体的な歩みをすることができるのです。 もちろん、私たちはそうは言っても揺らぐものです。悩む者です。死の恐れに支配されてしまう者です。しかし、それでもなお復活の主の光は、今日、確かに私たちに注がれています。「主の宮」である教会に集い、礼拝を捧げる行為は、復活の光を証しすることだからです。「主の家にわたしは帰り/生涯、そこにとどまるであろう」(6節)。私たちは強化で礼拝をささげていることは、永遠の主の宮にとどまるできごとを先取りしていることなのです。 かかわりのあるS幼稚園では卒園生が詩編23編をすべて暗唱します。羊飼いなる主イエスがあなたの一生を導いて下さる。そのことを忘れないで欲しい。そのような願いから伝統的に行われています。ボーレンは聖句を暗記することを「スポーツ的霊性」と呼びました。目がかすみ、聖書が読めなくなる時来る前に、詩編23編を私たちの魂に刻み込みましょう。この詩編がどんな時にあっても、「わたしを力づける」(勇気づける)でしょう。 #
by nozomichurch
| 2017-07-02 10:30
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